「わからなかったら聞いて」が一番キツい。工場勤務で2年苦しんだ僕が気づいた”教え方”の正体

第二章:「聞けない」のは、あなたのせいじゃない──指導設計の不在が奪うもの

昼休憩のチャイムが鳴ると、僕はいつも自販機の前のベンチに座る。缶の麦茶を開けて、一口飲んで、また閉める。別に喉が渇いているわけじゃない。ただ、手持ち無沙汰が怖い。何もしていない時間に、午前中のミスが頭の中で再生されるからだ。

今日も一つやらかした。部品の検品で、向きを間違えたまま流してしまった。後工程の人が気づいて止めてくれたから大事にはならなかったけど、上司には「何回目だ」と言われた。何回目か、正直もう数えていない。数えたら折れそうだから。

でも、あの工程の部品の向き、最初に教わった記憶がない。「見ればわかるだろ」と言われた気がする。確かに、慣れた人間には見ればわかるのかもしれない。刻印の位置が微妙に違う。でも僕には、その「微妙」が最初は同じに見えた。誰かが一回、「ここの刻印が左に来る方が表だ」と指で示してくれれば済む話だった。たった五秒の説明で防げたミスを、僕は何度も繰り返して、その度に「何回目だ」と言われてきた。

前の職場の先輩なら、初日に言ってくれていたと思う。あの人は部品を手に持って、僕の目の前でゆっくり回して見せてくれる人だった。「ほら、ここ。この傷みたいなのが目印。こっちが上」と。僕の手に部品を渡して、「やってみ」と言って、横で見ていてくれた。間違えたら怒る前に「惜しい、逆」とだけ言った。それだけで十分だった。

今の上司は、悪い人じゃないと思う。残業が続けば「無理するなよ」とも言ってくれる。飲み会ではそれなりに気を遣ってくれる。ただ、教えることに関しては、まるで別の人間になる。正確に言えば、教えるという行為自体に関心がないように見える。
自分が覚えた方法を、自分が覚えた順番でしか伝えられない。相手がどこでつまずいているかを観察するという発想がそもそもない。

同僚が辞めた日の夜、僕はアパートに帰って、風呂も入らずに布団に転がった。天井の染みを見ながら考えた。あいつは間違ってなかった。「ちゃんと教えてください」は、まともな要求だ。それに対してキレるほうがおかしい。でも、正しいことを言った人間が消えて、黙っている僕が残っている。この構図が、何より気持ち悪かった。

ナビゲーターの対話

ケンゴ:ここでは構造の話をする。工場の現場における「教育」というのは本来、属人的であってはならない。誰が教えても、一定の品質で技能が伝わる。そのために作業手順書があり、チェックリストがあり、OJTの設計がある。
だが現実には、多くの中小の製造現場でそれが整備されていない。指導が「できる人の勘と経験」に依存している。
結果、教える側の技量によって新人の成長速度に天と地の差がつく。あなたが前の職場で一日でできたことと、今の職場で二年かかったこと、その差はあなたの能力差ではない。指導インフラの差だ。この点は何度でも繰り返しておく。

サキ:同僚の方が辞められた話、胸が痛いですね。「ちゃんと教えてください」という言葉は、本来なら歓迎されるべき声なんです。教わる側が自分の困りごとを言語化して、助けを求めている。それは職場にとって有益な情報のはずですよね。でもそれが「反抗」として受け取られてしまった。
これは個人の問題ではなくて、その職場に「教えることについて話し合う文化」がなかったということだと思うんです。あなたが黙って残ったことを、卑怯だとは思わないでください。声を上げることだけが勇気じゃないですよ。歯を食いしばって二年かけて覚えたことも、一つの戦い方です。

アキ:ねえ、一個だけ聞いてもいい? 「見ればわかるだろ」って言葉、最初に言われた時どう感じた? たぶん、「え、わからないけど」って思ったよね。
で、そのあと「わからない自分がおかしいのかな」って思わなかった? これがけっこう怖いところなんだよ。「見ればわかる」って言い方は、わからない人間を最初から想定していない。そこに立たされると、人は「わからない自分」のほうを疑い始める。
でもさ、わからなくて当然だよ。初めて触る部品の刻印の向きなんて、教わらなきゃ知りようがない。それは知識の問題であって、能力の問題じゃないよね。

シオン:あなたは、黙って残った自分を「気持ち悪い」と言った。その感覚はもしかすると、罪悪感に似ているのかもしれない。正しいことを言った人間が去り、沈黙を選んだ自分が残る。その非対称に、居心地の悪さを感じている。
しかし、考えてみてほしい。残ったことで、あなたはこの二年間の経験を持っている。その経験はあなただけのものだ。もし今後、あなたが誰かに何かを教える立場になったとき、あなたは「見ればわかるだろ」とは言わないだろう。「ここの刻印が左にくる方が表だ」と、指で示すだろう。声を上げた同僚が残したものと、沈黙の中で学んだあなたが持っているものは、形は違えど、どちらも無駄にはならないのではないだろうか。

診断:見えない負債──「暗黙知依存型指導」の構造

第一章で「わからなかったら聞いて」が指導ではなく、責任転嫁であることを指摘した。第二章では、その背後にある構造をもう一段掘り下げる。

「暗黙知依存型指導」という負債。相談者の職場で起きていることは、製造業の中小企業で極めて多い「暗黙知依存型指導」の典型的な症状だ。熟練者が長年の経験で身につけた判断基準やコツ(刻印の向き、力加減、異音の聞き分けなど)が、言語化されないまま「見て覚えろ」「やっていればわかる」という形で放置されている状態を指す。

この構造の問題は三つある。

第一に、失敗コストの偏在。暗黙知が明文化されていない場合、新人はミスを通じてしか学べない。つまり学習コスト(時間・精神的負荷・後工程への影響)のすべてを、教わる側が負担する。教える側には「聞いてこなかったから」という免責が常に用意されている。

第二に、指導能力の不問。管理職やリーダーが「指導力」を評価される仕組みがない職場では、教え方の巧拙は問題として認識されない。生産性や品質は数値化されるが、「部下の習得速度」は測定されないため、指導の質は永久に改善されない。

第三に、離職の原因が隠蔽される。相談者の同僚のように、指導の不備に声を上げた人間が排除されると、「あの人は合わなかった」「メンタルが弱かった」という物語で処理される。指導設計の欠陥という本質は隠されたまま、次の新人がまた同じ穴に落ちる。

相談者が二年かけて到達した「まともにできる」状態は、本来であれば数ヶ月で到達可能だった可能性が高い。その差分は、相談者の人生の時間そのものだ。取り返しはつかない。だからこそ、この構造を「自分の能力不足」として内面化してはならない。

第二章の結論:あなたが経験した二年間の苦闘はあなた個人の学習能力の問題ではなく、職場の指導設計が不在だったことによる構造的な損失だ。「見ればわかる」「聞けば教える」は、教える側の負担を最小化し、教わる側にすべてのコストを押しつける仕組みにすぎない。
ただし、この二年で体得したものは確かにあなたの中に残っている。刻印の向き、力加減、工程の流れ。それは苦しみながらも獲得した実力だ。
今後の選択肢は二つある。一つはこの職場に残り、自分が後輩に教える側になったとき、「五秒の説明」を惜しまない人間になること。
もう一つは自分の学習スタイルに合った指導体制を持つ職場を探すこと。
どちらを選んでも、あなたが二年間で払った代償は無駄にならない。それはあなた自身が「教わるとは何か」を、身体で知っている人間になったということだから。

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