家族の延命の決断に後悔しないために。「足さない」という看取り

「もう苦しませたくない」と「目を覚ましてほしい」のあいだで

病院の廊下は、いつも同じ温度をしている。少し冷たくて、消毒液の匂いがして、自分の足音だけが大きく聞こえる。父がここに運ばれて、もう何日が経っただろう。

あの日、父の心臓は十五分か二十分、止まっていたという。私たちが駆けつけたとき父の口には太い管が入っていて、機械が代わりに胸を上下させていた。薬で眠らされ体を冷やされて、父はただ横たわっている。眠っているようにも見えたけれど、それは私の知っている父の眠り方ではなかった。

三日後、薬を抜いて目を覚ますのを待った。けれど、痙攣が出て危険だからとまた眠らされた。先生は「目が覚める可能性は一割」と言った。もし覚めても、寝たきりか車椅子で話すこともできず、食事はお腹に通した管から注射器で入れるのだと。

昨日は口の管を喉に穴を開けて入れ替える説明を受けた。私はそのとき、ああ、ここで「機械を外すかどうか」を聞かれるのだろうかと身構えた。けれどその話には一切触れられなかった。まだ薬が抜けきっていなくて、麻痺の有無も意識のレベルも確認できていなかったからだからだろうか。

父は娘の私が小さい頃から、延命はしてほしくないと言っていた人だ。だからもし選択を求められたら、私は父の言葉どおりにするつもりでいる。でも、もう人工呼吸器がついてしまっている場合はそういう話にはならないのだろうか。

機械をつけられて、ときどき苦しそうに顔を歪める父を見ているのが私はつらい。父はそれを望んでいなかったのに。意識が戻ってまた普通に話せたら、延命は不要と返事するに決まっている。 ……まとまらない話でごめんなさい。

よりみちナビゲーターの対話

ケンゴ:まず、これだけの状況の中で、文章をここまで筋道立てて書けていることに敬意を払いたい。「まとまりがない」と書かれているが、私にはそうは読めない。あなたは混乱の中で、いくつもの問いをきちんと切り分けようとしている。それはお父さんを守ろうとする人の頭の働き方だ。

そのうえで、構造の話をする。あなたが昨日「外すかどうか聞かれるのか」と身構えたのに聞かれなかった理由は、おそらく医療側の手順にある。
日本ではいったん装着した人工呼吸器を外すこと、いわゆる延命治療の中止は、開始しないことに比べ医療者にとって格段に重い判断になる。だから今は「まだ意識レベルも麻痺も確認できていない」段階で、回復可能性を見極めることが先になっている。つまり外す外さないの話が出ないのは、あなたの意思が軽んじられているからではない。順序の問題だ。

サキ:ケンゴさんの言うこと、構造としてはそのとおりだと思います。ただ、私はこの方の「苦しそうに顔を歪めている姿を見るのがつらい」という一文が、ずっと胸に引っかかっていて。

理屈で「順序の問題だ」と言われても、目の前のお父さんが顔を歪めるたびに、娘さんの心臓も一緒にきゅっと縮むんですよね。それは順序では片づかない痛みです。私はまず、その痛みを抱えているあなた自身がちゃんとごはんを食べて眠れているのか、それを聞きたい。

ケンゴ:それも一理ある。ただ──サキさん。感情を受け止めることと、感情のままに動くことは別だ。今この方を支えるのは、確かな情報だと思う。たとえばその「苦しそうな顔」が、本当に苦痛を意味しているのかどうか。低体温療法や鎮静下では、表情筋の動きや反射が本人の苦痛と限らないことがある。そこは医療者にしか判断できない。だからこそ、苦しんでいるように見えることそのものを主治医に率直に尋ねてほしい。「父は苦しんでいるのですか」と。

サキ:……そうですね。そこは私が見落としていました。見えている表情を、つい娘さんと同じ目で「苦痛だ」と決めつけてしまった。確かめずに「苦しんでいる」と思い込むのは、かえってこの方を追いつめてしまうかもしれない。失礼しました。

ケンゴ:いや、サキさんが先に「眠れているのか」と聞いたのは正しい。この判断は何日も続く。判断する人間が倒れたら、お父さんを守る人がいなくなる。

シオン:……二人の言葉は、どちらも嘘ではないだろう。一つだけ、別の角度から置いておきたいことがある。あなたは「父が望んでいなかった」と繰り返している。それはお父さんがかつてあなたに託した言葉だ。今この瞬間、お父さんは語れない。だからあなたが、お父さんの代わりに語っている。それは重い役目だが、同時にお父さんとあなたが昔交わした約束が今も生きているということでもある。確認すべきは医学だが、抱えているのは約束ではないだろうか。

自分に問いかけるロードマップ

  • 父の「苦しそうな顔」について、私は主治医に「これは苦痛なのですか」と直接尋ねただろうか。確かめる前に、見えたものだけで結論を出していないか。
  • 父が昔「延命はしてほしくない」と言ったとき、その「延命」が具体的に何を指していたのか、家族で言葉にして共有できているだろうか。
  • 人工呼吸器や気管切開、胃ろうについて、それぞれ「いつ・誰が・どう判断するのか」を、医療ソーシャルワーカーや主治医に整理して聞けているだろうか。
  • この何日もの判断を、私は一人で背負おうとしていないか。一緒に決める家族や、相談できる窓口があるだろうか。

本日の羅針盤

ケンゴは言う。これは順序の問題であり、まず確かな情報を取りに行くべきだと。
サキは言う。情報の前に、あなた自身の体と心がもたなければ意味がないと。
シオンは言う。あなたが抱えているのは医学であると同時に、お父さんとの約束だと。

三つは矛盾しない。今あなたにできる最初の一歩は、たった一つの問いを主治医にぶつけることだ。「父が望んでいなかった延命について、今後どの場面で誰が判断を求められますか」。そして「父の表情は苦痛を意味しますか」。この二つを聞くだけで、あなたが立っている場所の輪郭が少しはっきりするはずだ。

答えは、今日出さなくていい。父との約束はあなたが急いで結論を出すことではなく、父の意思をきちんと医療の場に届けることで果たせる。

専門機関への相談もご検討ください。 治療方針や延命に関する判断は、主治医に加えて病院の医療ソーシャルワーカーや地域の患者相談窓口に相談できます。気持ちの整理がつらいときは、各自治体の「いのちの電話」やこころの健康相談統一ダイヤル等も利用できます。一人で抱え込まないでください。

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