第三章 あたたかい手の、終わりかたについて
朝が来た。
窓の外がうっすら白んでくると、病室の機械の音が夜とは違って聞こえる。同じ音のはずなのに、昼の音は少しだけ事務的だ。看護師さんが体を拭きに来て、父の腕を持ち上げ、また戻す。その手つきが優しくて、私はなぜか泣きそうになった。
昨日、主治医に思いきって聞いた。「父は苦しんでいるのでしょうか」と。先生は、今は鎮静が効いていて、顔の動きは反射のこともあると教えてくれた。それから、「これから足す治療と今ある治療は、分けて考えましょう」とも。ケンゴさんという人が言っていたとおりだ。聞いてよかった。聞かなければ私はずっと、見えるものだけで父が「苦しんでいる」ことにしていた。
でも、聞いてしまったら今度はその先が見えてしまった。一割。父が一割の側に入らなかったとき、私は何を支えに父を見送ればいいのだろう。
よりみちナビゲーターの対話
ケンゴ:第一章で問いを立てよと言い、第二章で重さを分けた。今日、あなたは実際に主治医へ問うた。それはこの数日であなたが踏み出した、最も大きな一歩だ。見えるものだけで「苦しんでいる」と決めていた段階から、確かめる段階へ移った。これは小さなことではない。
そのうえで、最後の問いに答えたい。「何を支えに見送ればいいのか」。私はこう考える。支えはあなたが正しく振る舞ったという事実だ。あなたは父の言葉を覚えていた。確かめるべきを確かめた。足すか足さないかを、感情の勢いでなく父の意思と照らして判断しようとした。たとえ結果が一割の外であっても、あなたの手続きは間違っていない。それがあとで自分を責めないための、唯一の土台になる。
サキ:ケンゴさん、私はその「手続きは間違っていない」という言葉、本当に大切だと思います。あとでこの方を救うのは、きっとその一言です。
ただ──私は、見送りの支えは「正しさ」だけじゃないと思っていて。この方はお父さんの手を握って「あたたかい」と書いていました。肩車をしてもらった手、頭をはたかれた手。支えになるのは、そういう、もう取り戻せない手触りの記憶のほうじゃないでしょうか。正しく見送れるかどうかより、最後まで手を握っていられたという事実のほうが、何年経ってもこの方を立たせてくれる気がするんです。
ケンゴ:……それも一理ある。いや、サキさんの言うほうが本当のところかもしれない。私は「責めないための土台」を語ったが、土台の上に立って生きていくのはあなたが言う「手触りの記憶」のほうだ。正しさは後悔を防ぐ。記憶は、その先を生かす。両方いるということだろう。
サキ:ええ。両方いるんですよね。ケンゴさんの「正しさ」がなければ、記憶は罪悪感で曇ってしまう。あなたの判断が正しかったから記憶をきれいなまま持っていられる。……そういうことなんだと思います。
シオン:……あなたは「何を支えに見送ればいいのか」と問うた。けれど、見送るとは相手が消えることではないのではないか。お父さんがあなたに残した「延命はしてほしくない」という言葉は、これから先、あなたが誰かを看取るとき、あるいは自分の終わりを考えるとき、もう一度あなたの中で生き返るだろう。手は冷たくなる。けれど言葉と手触りは、あなたの体温の中に移される。見送りとは、引き継ぐことだ。あなたはもう、その途中にいる。
自分に問いかけるロードマップ
- 私はこの数日で、確かに一歩を踏み出した。「聞けなかった」自分から「聞けた」自分へ。その小さな前進を、自分で認めてあげられているか。
- もし最も悲しい結果になったとき、私を責めるものは何で、私を支えるものは何か。「正しく判断した」事実と、「最後まで手を握った」記憶、その両方を今から大切に積んでおけるか。
- 父の言葉を、私はこの先どう引き継いでいきたいか。誰に、どんな形で伝えていけるだろうか。
本日の羅針盤
ケンゴは、見送りの支えは「正しく振る舞った事実」だと言った。
サキは、それだけでは足りない、支えるのは「取り戻せない手触りの記憶」だと言った。そして二人は、ぶつかった末に同じ場所へたどり着いた。正しさは後悔を防ぎ、記憶はその先を生かす。両方が要るのだ、と。
シオンは、見送りとは消えることではなく、引き継ぐことだと言った。
ここでも、答えを一つには束ねない。けれど、三章を通して見えてきたことがある。あなたは無力な傍観者ではなかった。問いを立て、確かめ、父の言葉を抱えて、あたたかい手を握り続けている。それはできることのすべてだ。これ以上を、自分に求めなくていい。
結果がどちらに転んでも、あなたが今していることはお父さんを最後まで一人にしない、ということに尽きる。それで十分だ。
専門機関への相談もご検討ください。 看取りの過程やその後の悲嗣(グリーフ)について、病院の緩和ケアチームや医療ソーシャルワーカー、地域のグリーフケア窓口が支えになります。気持ちが沈んで日常が立ち行かないときは、こころの健康相談統一ダイヤルやかかりつけ医への相談も検討してください。あなた自身を、どうか後回しにしないでください。




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