第二章「外せない」のか、「外さない」のか ― 言葉の重さを分けてみる
夜の病室は、機械の音だけが規則正しく続いている。
私は折りたたみの椅子に座って父の手を握っていた。あたたかい。確かにあたたかいのに、その手は何の力も返してこない。子どもの頃、この手を使って肩車をしてもらった。叱られたときは、この手で頭をはたかれた。今はただ、私の手の中で重みだけがある。
ケンゴさんという人が言った「順序の問題だ」という言葉を、私は何度も思い返している。聞かれなかったのは、私の気持ちが軽んじられたからではない。まだ、見極めの途中なのだ。そう思うと、昨日まで胸を塞いでいた「なぜ何も聞いてくれないのか」という焦りが少しだけほどけた。
ほどけた分、別の問いが顔を出す。もし見極めが終わって父が一割の側に入れなかったとき。私は本当に父の言葉どおり、「やめてください」と言えるのだろうか。父はもう、何も言えないのに。
よりみちナビゲーターの対話
ケンゴ:第一章でまず、主治医に二つ問えと言った。今日はその先の話をする。あなたが恐れているのは「やめてください」と自分の口で言う場面だろう。だからここで、言葉を分けておきたい。
延命をめぐる判断には、大きく二つある。一つは「これ以上、新しい治療を足さない」。もう一つは「今ついている治療を、外す」。この二つは、重さがまるで違う。
たとえば気管切開や胃ろうは、「これから足すかどうか」の判断だ。あなたの意思が反映されやすい。一方、すでに動いている人工呼吸器を止めるのは、現在の日本では極めて慎重な手続きを要する。だから多くの場合、家族が迫られるのは「外す」決断ではなく、「これ以上足さない」という選択のほうだ。あなたが背負うかもしれない重さは、想像しているものより少しだけ軽い場所にあるかもしれない。
サキ:ケンゴさん、その「足さない」と「外す」を分ける話、私はとても大事だと思います。娘さんは、まだ起きてもいない「外してくださいと言う場面」を、何度も頭の中で繰り返してしまっている。それがどれだけ消耗するか。
ただ、私が気になるのは……「足さない」だって、十分に重いということです。胃ろうをつけなければ、お父さんは口からも管からも栄養を取れなくなる。それを「足さないだけ」と整理してしまうと、この方はあとで「私が足さないことを選んだから」と、自分を責めてしまわないでしょうか。
ケンゴ:そうだ。サキさんの指摘は正しい。私は手続きの重さを分けたが、心の重さまで軽くなるとは言っていない。むしろ逆だ。「足さない」という選択も、あなたの胸には同じだけ重く残る。私が言いたかったのはその重さを、「父の言葉を守る重さ」として受け取れるかどうかという一点だ。
サキ:……ええ。そこは私もケンゴさんと同じです。お父さんは小さい頃から、あなたに「延命はしてほしくない」と伝え続けた。それはいつかこの日が来ることを、お父さんがどこかで分かっていたからかもしれません。あなたに「重い決断をさせたくなかった」から、先に答えを渡しておいてくれた。そう考えると、あなたが選ぶんじゃない。お父さんが、もう選んでくれていたんですよね。
シオン:……娘のあなたは「父はもう何も言えないのに」と書いていた。けれどお父さんはずっと前に言葉を残している。今あなたが迷っているのはその言葉を信じきれないからではなく、信じることが怖いからではないだろうか。信じてしまえば、別れに一歩近づく。だから人は、すでに渡された答えを何度も握り直して確かめる。それは迷いではない。愛し方の一つの形なのだと思う。
自分に問いかけるロードマップ
- 私が恐れている「やめてくださいと言う場面」は、本当に来るのか。それとも「これ以上足さない」という、別の形の選択なのか。主治医に想定される分岐を聞いてみたか。
- 父が遺した「延命はしてほしくない」という言葉を、私は「自分が背負う決断」だと思っていないか。それは父自身が、もう選んでくれた答えではないか。
- 「足さない」を選んだとして、後から自分を責めそうな部分はどこか。それを今のうちに、家族や医療者と言葉にしておけないか。
本日の羅針盤
ケンゴは、判断の重さを「足す」と「外す」に分けた。あなたが迫られるのは、おそらく「外す」決断ではない。
サキは、たとえ「足さない」であっても心は同じだけ痛むと、その痛みを正面から認めた。
そしてシオンは、あなたが握っている迷いは、お父さんへの愛し方の一つなのだと言った。
ここでも答えは一つに束ねない。ただ、一つだけ確かなことがある。あなたはゼロから決断する立場ではない。お父さんは何十年も前から、あなたの肩の荷を半分背負ってくれていた。あなたがすべきは新しく決めることではなく、お父さんの言葉を医療の場に正しく届けること。その代弁者であることに、どうか誇りを持ってほしい。
専門機関への相談もご検討ください。 「足す治療」「外す治療」それぞれの判断の流れは、病院の医療ソーシャルワーカーや緩和ケアチームに整理してもらえます。事前の意思表示(リビングウィル)や家族で方針を話し合うACP(人生会議)についても、相談窓口で説明を受けられます。




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