第二章:偽物という名の防衛線
彼から言われた「本当は深く傷つけられないだけでしょ」という言葉が、ずっと頭のなかでリフレインしています。
その通りだ、と思ってしまうのです。カッターを持つ手はいつも震えているし、本当に死ぬ勇気なんてない。ただ、皮膚に走る赤い線を見て、じわっとにじむ血の赤さに「私はまだ生きている」と安心したいだけ。本気で命を絶とうとしている人たちの切実さに比べたら、私のやっていることはただの「かまってちゃん」の歪んだアピールに過ぎないのではないか。そう思うと自分の姿がますます醜く浅ましく思えて、誰にも言えなくなってしまいます。
でも、腕の傷が服に擦れるかすかな痛みを覚えるたび、不思議と心が少しだけ落ち着くのも事実なのです。その痛みが頭の中のぐるぐるとした不安を、一時的にせよ外側へと引っ張り出してくれるから。私は本当にだめな人間なのでしょうか。この「気づいてほしい」という願いは、そんなに責められるべきことなのでしょうか。
よりみちナビゲーターの対話
サキ: 前回の話にもありましたけれど、相談者様が「本気の人に失礼」「自分は偽物だ」と自分を責めてしまうのが、私は本当に切なくて……。生活のなかで、誰かに自分の苦しさを「気づいてほしい」と願うのは、お腹が空いたらご飯を食べたいと思うのと同じくらい、ごく自然な生存本能のはずです。
それを「ずるいこと」だと本人が思い込んでしまう背景には、周囲からの冷たい視線や今の社会の「自立していなければならない」という無言のプレッシャーがあるように感じます。
アキ: サキさん、その通りだと思う。でもね、私は「気づいてほしい」という気持ちのなかにもうひとつ、相談者様自身も気づいていない「怒り」が隠れているような気がするんだ。だってさ、普通に「つらい」って言葉で言っても誰もまともに聞いてくれなかったから、身体を傷つけるっていう過激な方法をとるしかなくなっちゃったわけでしょ? 彼は「度胸がない」なんて言ったけど、度胸の問題なんかじゃない。それって静かな部屋で大声を出す代わりに、自分の身体をスピーカーにしなきゃいけなかったっていう切羽詰まった現状の証明なんだよ。
サキ: アキさんの言う、言葉にならなかった「怒り」という視点は確かにハッとさせられます。ただ、もしそれが周囲への抗議や怒りなのだとしたら、カッターの刃を自分に向けるのはあまりにも悲しい選択です。だって、本当に怒りを向けたい対象や環境ではなく、一番守るべき自分の皮膚を傷つけているのですから。
その方法を続けている限り、彼はさらに心を閉ざしてしまうかもしれない。関係性を維持しながら自分を救うためには、やはり少しずつでも「言葉」にしていく必要があるのではないでしょうか。
アキ: それは正論だけど、その「言葉にする」のが死ぬほど難しいから今こうなってるんだよ。明日の朝、またあの重いオフィスのドアを開けるとき、言葉で綺麗に説明できる余裕なんてない。サキさんの言うことは長期的には正しいかもしれないけど、今夜、目の前で震えてる手に対しては「偽物でも何でもいいから、まずはその痛みを自分でハグしてあげて」って言いたい。綺麗に解決しようとしなくていいんだよ。
シオン: 二人の熱い言葉が、相談者様の心の輪郭を少しずつ浮き彫りにしていますね。「本物」や「偽物」という言葉は、人間が頭の中で作り出したただの記号に過ぎません。浅い傷であれ深い傷であれ、そこにあるのは「いま、耐えがたい苦痛が存在する」という厳然たる事実だけです。
アキさんの言う「いまを凌ぐための自愛」も、サキさんの言う「明日へ繋ぐための言葉」も、どちらも欠かすことはできません。ただ、ご本人が「自分はダメな人間だ」と裁くその裁判官の席から、一度降りてみることはできないでしょうか。
そのカッターの刃は、他者を変えるための道具ではなく、あなたがあなた自身の痛みを必死に確認するための、不器用な指先だったのかもしれません。
自分に問いかけるロードマップ
- 問いかけ 1:「本物」の傷をつけたら、あなたは何が満たされると思いますか?
もし、彼が納得するような「深い傷」をつけたとして、本当にあなたが欲しかった「安心」や「救い」は手に入るでしょうか。傷の深さではなく、あなたが求めている「受け止められ方」について一度想像してみることはできますか。 - 問いかけ 2:傷以外の方法で「私はここにいる」とつぶやくとしたら?
誰かに気付いてもらうためのサインとして、自傷という身体的なリスクを伴う方法の代わりに、信頼できる窓口に「今、すごく消えたい気持ちです」とテキストで一行送ってみるような、小さな『身代わりの行動』を試すことはできますか。
本日の羅針盤
あなたが自分を「偽物」だと責める必要は、一滴もありません。痛みを紛らわせるために傷をつけることも、誰かに気づいてほしいと願うことも、すべてはあなたが「生きたい」ともがいている証拠です。 ただ、その痛みをぶつける先があなたの身体である必要はありません。
あなたの「助けて」というサインを正しく、安全に受け止めるためのプロたちが、あなたの外側には必ず存在しています。自分をジャッジするのをやめ、その震える手をどうか温かい専門の場所へと伸ばしてみてください。



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