第三章:刃物を置き、呼吸を買い戻す
自分のなかに「言葉にならない怒り」があったなんて、考えもしませんでした。でも、言われてみれば私の話をろくに聞こうともせず、ただ自分の都合の良い「お人形」でいることを求めてくるような毎日に、私は絶望していたのかもしれません。
カッターの刃を肌に当てるとき、私は確かに世界に対して何かを叫んでいたのだと思います。でも、その結果として残るのは傷ついた自分の身体と、さらに冷たくなった彼の視線だけ。これ以上、自分をすり減らすのはもう終わりにしたい。
とはいえ、明日から急に強くなれるわけでもありません。またあの不安の波が襲ってきたとき私はどうすればいいのだろう。カッターをゴミ箱に捨てるだけの勇気は、まだ私にはありません。それでもほんの少しだけ、違う景色を見てみたいと思い始めています。
よりみちナビゲーターの対話
アキ: カッターをね、今すぐゴミ箱に捨てなくていいんだよ。そんなことしたら、次に不安が襲ってきたとき逃げ場がなくなってパニックになっちゃうから。引き出しの奥にそっとしまったままでいい。ただ次に「あ、今切りたいかも」って思った瞬間、10秒だけカウントダウンしてみてほしいの。スマホで好きな音楽のイントロを聴くとか、冷たい炭酸水を一気に飲むとか、感覚を「別の刺激」でジャックしちゃう。そうやって刃物と自分の皮膚とのあいだに、ほんの少しの「隙間」を作ることから始めてみない?
サキ: アキさんの「隙間を作る」というアイデア、とても実生活に即していて素敵です。安全な代替行為(コーピング)を見つけることは、日常を回していくために本当に大切な知恵ですから。
私からもうひとつ提案したいのは、彼との関係のなかに今の自分の全財産を賭けないでほしい、ということです。
彼の言葉に傷つき、彼の反応を伺うためにまた傷を重ねてしまうのは、あなたの人生の手綱を彼に握らせているのと同じになってしまいます。まずは生活のなかの小さな選択――今日のお昼に何を食べるか、何時に寝るか――を、自分の意志だけで決める感覚を取り戻していきませんか。
アキ: サキさん、それはすごく大事な視点。自分の人生の主権を取り戻すってことだよね。でも、長年「誰かの顔色」を伺って生きてきた人にとって、自分の意志で決めるのって結構エネルギーがいることだよ。だから私は、彼に「助けて」と言うのをやめる代わりに、全く関係のないプロの人に「今、しんどいです」ってメールを送る権利を自分にプログラミングしてほしいな。彼を驚かせるためのサインじゃなくて、自分が生き延びるための実用的な通信手段としてね。
シオン: お二人の具体的なアプローチは、どちらも相談者様の足元を優しく照らす灯火ですね。私たちは、傷をつけることでしか「自分の存在」を実感できない夜を過ごすことがあります。しかし、本当に求めているのは傷をつけることではなく、その後に訪れる「ほっとした息継ぎ」のはずです。 カッターを握りしめるその手は、これまであなたを必死に守ってきた手でもあります。その手をまずは「よくがんばってきたね」と、あなた自身がさすってあげてください。そしてその手のなかの刃物を、ゆっくりとペンや温かい飲み物のカップ、あるいは信頼できる相談窓口の番号へと持ち替えていく。そのプロセスを決して、一歩で進める必要はありません。満ちては引く波のように、ゆっくりと時間をかけて馴染ませていけば良いのです。



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