この霧のような疑いを、私はどう抜けていけばいいのだろう
古い木造の事務所で、地域の介護事業所の事務を担当している。四十代に入ったばかりの、独り身の女だ。北陸の小さな町で、母とふたり暮らし。冬になると窓の外で、雪が屋根を擦る音がする。
所長の田辺さんは五十代の温厚な男性で、私が中途で入ってきたときから何かと気にかけてくれた人だ。三年前、田辺さんと当時主任だった真知子さんが職場で「ただならぬ関係」だったことを、私は知っている。知っているどころか、真知子さんから何度も打ち明けられていた。喫煙所の裏で、軽自動車の助手席で、ファミレスの隅の席で、私はただ頷いて聞いていた。
ふたりの関係は、半年ほど前に終わったらしい。終わったあとから、真知子さんの目つきが変わった。私が田辺さんと書類のやりとりをしていると、廊下の向こうから視線が刺さってくる。先月、休日に隣町のショッピングモールでお茶を飲んでいたら、真知子さんから電話がかかってきた。「今、誰と一緒なの」と低い声だった。
一度だけ、給湯室で正面から問い詰められた。「あなた、田辺さんと、なにかあるんでしょう」。違います、と答えた。何度も、違いますと言った。けれど真知子さんの目は、私の言葉を一文字も受け取ってはくれなかった。
田辺さんとは、ただ仲がいい。それだけだ。でも、振り返ってみれば真知子さんと田辺さんが揉めていた時期、私は田辺さんに少しだけ寄り添うような距離感でいたし、別のときには、意識的に離れたりもしていた。あの頃の自分がどこかで、誰かの感情を引き受けてしまっていたのかもしれない。
濡れ衣を晴らしたいのではない。ただ毎朝、出勤の支度をしながら鏡を見ると、自分がひどく薄っぺらい人間に見える。この霧のような疑いを、私はどう抜けていけばいいのだろう。
サキの声——「あなたは、なにも悪くないのに」
読ませてもらって最初に出てきた言葉は、「しんどいですね」でした。本当に、しんどいですよね。
身に覚えのないことで疑われ続けるって、ただ「迷惑だ」「不愉快だ」では片付かない、もっと深いところを削られる体験なんですよ。だって自分が自分であることを、相手に承認してもらえないんですから。「違います」と言っても、言葉そのものが届かない。あの感覚は立っている地面が少しずつ柔らかくなっていくような、独特の不安があると思うんです。
それでね、私が気になったのは相談の最後のところです。「あの頃の自分が、誰かの感情を引き受けてしまっていたのかもしれない」と書かれていましたよね。ここにあなたの真面目さと、優しさと、そして少しの自責が見えました。
でも、はっきり言わせてくださいね。真知子さんから相談を受けていたことも、田辺さんと普通に仲が良かったことも、距離を測りながら接していたことも、ぜんぶあなたが誰かを傷つけるためにやったことじゃないですよね。むしろ職場という閉じた場所で、人と人のあいだに立とうとしてきた人の振る舞いです。それは悪いことじゃないですよ。
シオンの声——「霧は、誰のものか」
その疑いの霧は、果たしてあなたの上に立ち込めているだろうか。
真知子さんという人が見ているのはあなたの輪郭ではなく、彼女自身がまだ手放せていない時間の残像ではないだろうか。終わった関係の痛みを、彼女はどこか置く場所を探しているのかもしれない。たまたまその近くにあなたが立っていた。それだけのことなのかもしれない。
あなたが削られているように感じているのは自分の落ち度ではなく、他人の未処理の感情の重さという可能性がある。荷物を間違えて持たされていることに、気づいてもいいのではないだろうか。
気づきのセクション——なぜ「証明したい」と思ってしまうのか
疑われたとき、人はどうしても「無実を証明したい」と思いますよね。これはごく自然な反応です。
でも、ここで一度立ち止まってほしいんです。
証明という行為は、相手が「受け取る用意があるとき」にしか成立しません。真知子さんは今、受け取る用意のない状態です。彼女自身の痛みがまだ生々しすぎて、あなたの「違います」を受け取る隙間が心のなかにないんですよ。
だからあなたが今すべきことは、たぶん相手を説得することではないんです。説得しようとすればするほど、「やっぱり何かあるから必死なんだ」と解釈されてしまう、悲しい構造に入り込んでいくだけですから。
代わりに、考えてみてほしいことが三つあります。
- 田辺さんとの関わり方を、業務上必要な範囲に「見えるかたち」で整理できないか
- 真知子さんからの休日の電話など、業務外の干渉について記録を残しておけないか
- 状況が深刻化したときに頼れる、社内外の窓口(労務担当者、外部の労働相談機関など)を、今のうちに把握しておけないか
これは戦うための準備ではありません。あなた自身が「自分の生活を、自分で守れている」という感覚を取り戻すための、静かな足場づくりです。
もし、心身の調子に影響が出てきている、眠れない日が続いているというようなことがあれば、地域の労働相談窓口や、心の健康に関する公的な相談窓口に話を聞いてもらうことも、選択肢に入れてみてくださいね。一人で抱える必要は、本当にないんですよ。
本日の結論
疑いを晴らすことがゴールではありません。相手の感情の処理を、あなたが引き受ける必要はないのです。あなたがすべきは「信じてもらう」ことではなく、「自分が自分を疑わないでいられる足場」を静かに整え直すこと。霧はあなたが作ったものではない。あなた一人で晴らそうとしなくていいんですよ。




コメント