「今日は最悪」と言う子の隣で、私は何を失くしていたのか
台所の換気扇が低く唸る朝、私はまた身構えている。二世帯住宅の一階、義父と暮らすようになって三年。小学四年生になった娘が階段を下りてくる足音で、その日の空気の重さが決まる。
「なんで起こしてくれなかったの」「今日、給食カレーじゃないの、最悪」
まだ何も始まっていない朝の七時前から、彼女の口からこぼれ落ちるのは不満ばかりだ。私はパートの管理栄養士として、他人の献立には自信がある。なのに自分の子の心には、どんな一皿も届かない。学校から帰れば友達の悪口、習い事のピアノから戻れば先生の指使いへの文句。「いいところを見つけよう」と何度言っただろう。
娘は今日も玄関で靴を脱ぎながら、「最悪の一日だった」とつぶやく。ふと、階下から義父の「まったく、この町内会は」という声が聞こえてくる。もしかしてこの子は、あの人に似てしまったのだろうか。それとも私が、この子を不幸に育ててしまったのだろうか。夕飯のだし巻き卵が、いつもより少し焦げていた。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:まず、お母さん。毎朝の足音に耳を澄ませて、身構えてしまう。それだけでもう十分すぎるほど頑張っていますよね。だし巻き卵を焦がしてしまったこと、私、なんだか分かる気がするんです。心のどこかがいつもお子さんの機嫌の方に向いている。自分の手元が、少し留守になってしまう。
アキ:わかるよ、それ。朝の七時前からダメ出しの連続って、正直しんどいよね。でもね、私は逆のことを思ったんだ。その子、めちゃくちゃ正直じゃない?「カレーじゃないの最悪」って、思ったことをそのまま出せる場所がちゃんとあるってことだよ。それ、この子にとって、お母さんが安全な場所になれてる証拠だと思う。
ケンゴ:アキの見方には一理ある。ただ、私は少し構造の話をしたい。この子が不満を言うたびに、お母さんは「いいところを見よう」と返している。だがこれは、「あなたの感じたことは間違いだ」というメッセージになっている可能性がある。不満を否定されると、人はもっと強く不満を言う。声が届くまで音量を上げる。悪循環の構造だ。
サキ:ケンゴさんの言うこと、分かります。ただ──お母さんは決して、娘さんの気持ちを踏みにじりたかったわけじゃないんですよね。「愚痴ばかりの人生を送ってほしくない」。この願いの根っこには、深い愛情があります。方向が少しだけ、ずれてしまっただけで。
ケンゴ:もちろんだ。お母さんの愛情を疑ってはいない。私が言いたいのは順番の話だ。「最悪だった」と言う子に必要なのはいいところの発見ではなく、まず「そうか、最悪だったんだな」という、事実の受け取りだと思う。子どもは感情を承認されて初めて、次の景色を見られる。
アキ:うんうん、それ身体でわかる。私も落ち込んでるときに「でも良かったこともあるよ」って言われると、なんか一人にされた感じがするんだよね。「わかるよ、それは嫌だったね」の一言のほうが、よっぽど前を向ける。
サキ:お母さんが一番おそれているのは、「障害があるのでは」「祖父からの遺伝では」ということですよね。ここはそっと、横に置いておきたいんです。しつこく続けてしまうこと、癇癪。
気になるなら、専門家に相談する道は確かにあります。ですがそれは「異常を見つけるため」ではなく、「この子の取扱説明書を一緒に読み解くため」なんです。診てもらうことは、母親失格の証明ではありません。むしろこの子を大切にしている人だけが持てる選択肢です。
(お子さんの発達や関わり方に不安が続く場合は、お住まいの地域の教育相談室や、小児科・児童精神科など専門機関への相談もご検討ください。それは弱さではなく、選べる強さです)
アキ:あとさ、遺伝って言葉で自分を責めるの、もうやめよう?おじいちゃんに似てるんじゃなくて、単純に同じ屋根の下で不満の言い方を聞いて育っただけかもしれないし。だとしたら、それって変えられるってことだよ。
自分に問いかけるロードマップ
- 娘が「最悪」と言ったとき、私はその言葉を受け取る前に、消そうとしていなかっただろうか。
- 「いいところを見よう」という声かけは、誰のための言葉だったのだろう。娘のため、それとも「ちゃんと育てている私」を確かめるためだったか。
- 私は娘の不満と同じくらい、自分自身の一日を「よく頑張った」と受け取れているだろうか。
- 「障害」「遺伝」という言葉に、私は何を託そうとしていたのか。原因を外に見つけることで、少し楽になりたかったのかもしれない。
本日の羅針盤
サキの視座からは、まず娘さんの言葉を消さずに受け取ることから始まります。「そっか、パンが良かったんだね」——たったそれだけで、子どもは自分の感情が肯定される経験を積みます。承認された感情は、やがて静かになっていくものです。
ケンゴの視座は、これを構造として捉えます。不満は「否定されると増幅する」。だから短期的には、まず徹底して受け止める。長期的には家庭の中で、「不満の言い方」そのものが少しずつ書き換わっていく環境をつくること。
アキの視座は、お母さん自身へ向きます。娘さんが正直に不満を出せるのは、あなたが安全な港だから。そして遺伝という重荷は、あなたが背負う必要のないものです。
答えを一つに絞る必要はありません。ただ、ひとつだけ確かなことがあります。これほど悩み、これほど娘さんの未来を案じているあなたは、けっして「子どもを不幸に育てる母親」ではないということです。焦げただし巻き卵は、あなたが愛情を注ぎ続けている何よりの証拠なのですから。





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