「正しく生きるのが馬鹿らしい」と感じたら。整備工場の夏と冬が教えてくれたこと

第一章 正直に締めたネジは、誰も見ていない

盆休みが明けても、工場の中の空気はぬるいままです。私は二十九歳、県道沿いの自動車整備工場で働いています。
八月下旬、ピットの床は油と水が混ざって黒く光り、業務用の扇風機が首を振るたび生ぬるい風が首筋を撫でていく。冷凍庫に入れておいたスポーツドリンクを昼に飲みきってしまって、午後は工場の裏の自販機まで歩く。歩くあいだ桜の木で蝉が鳴いているのに、もう鳴き方が八月の終わりの音になっていました。

私は真面目にやってきたと思います。点検の記録は実際に見たものしか書かない。締め忘れたかもしれないと思えば、もう一度リフトを上げて確認する。自分のミスは、自分の名前で報告する。そうしていればその分だけ、何かが返ってくると思っていました。

専門学校の同期に、タツヤという男がいます。彼は数年前、私の勤める工場の顧客を何人か自分の店に連れていきました。
「そろそろ買い替えないと危ないですよ」と、まだ乗れる車を大げさに言って売る。点検記録も実際より少し良く書く。本人はこう言い切ります。「他人に大きな迷惑をかけない範囲なら俺は嘘もつくし、裏から手も回す。自分が幸せになるためだから」。
彼は好きだった女性と結婚して四年目、子どももいて、店の前に家族の写真の入った看板を出しています。本当に幸せそうなんです。

一方で先輩の高木さんは三十五歳、他人のミスまで「自分が最終確認したので」と引き受けてしまう人です。一年前、婚約していた相手が去りました。相手側は周囲に、事実と違う理由を話しているらしい。金銭にルーズだったとか、そういう話です。
高木さんは違うと知っていて、何も言わない。「あの人を縛りたくないから」と。昼休みは一人で、軽トラの助手席にいます。

私から見れば高木さんが善で、タツヤが悪です。でも、幸せそうなのはタツヤです。良いことをすれば幸せになるという因果が本当にあるなら、なぜこうなるのか。それともそんな因果は思い込みで、幸福は運と自分が何を幸せと呼ぶかで決まるだけなのか。
もし後者なら、私はそれでも道徳的に生き続けるべきなのでしょうか。奇麗事は求めていません。正直なところを聞きたいです。

よりみちナビゲーターの対話

アキ: まず言わせて。最初に書かれてるけど、締め忘れが心配でリフトをもう一回上げるって、誰にも見られない作業でしょ。誰にも評価されない作業を毎日やってきた人が、看板に家族写真を出してる同期を見たときの腹の底の冷たさ。それ、正当な感情だよ。まず、そこを自分に認めてあげてほしい。

ケンゴ: アキの言うことは分かる。感情を先に否定されると、人は考えるのをやめてしまう。ただ私は、もう一歩進めたい。相談者が本当に悩んでいるのは痛みそのものではなく、自分の中で使っていた計算式が壊れたことだ。「正直=報酬」という式で世界を運転していたのに、実測値が合わない。だから不安になる。ここは慰めではなく、式の作り直しの話をすべきだと思う。

アキ: その「式」って言い方が、私はちょっと引っかかるな。人は電卓じゃないよ。式が壊れたんじゃなくて、信じてたものを裏切られた感じがしてるんだと思う。そこを飛ばして構造の話にすると、結局「お前の考えが甘い」って言われた気持ちになる。

ケンゴ: そうなる危険は認める。だが、甘いと言いたいのではない。相談者は八年か十年、同じ工場で同じやり方を続けている。それは甘さではなく、資産だ。資産の価値を間違った物差しで測っているから低く見えている。私が言いたいのはそれだけだ。

サキ: お二人の話、どちらも大事だと思います。ですよね、と言いたいところなんですが、私は少し違う場所が気になっていて。この方、午後に自販機まで歩いていますよね。冷凍庫に入れた飲み物を昼で飲みきってしまう。それって、午前中に体力を使いすぎているということです。
夏の終わりの整備工場で、油の匂いのする空気を吸って、他人の善悪を数えている。この方の疲れは思想の疲れというより、身体の疲れが先に来ている気がするんです。

アキ: ……たしかに。私も考えが暗くなるときって、だいたい寝てないか水が足りてないかだ。

サキ: 高木さんが軽トラの助手席にいるという描写も、私は読み飛ばせませんでした。運転席じゃなくて助手席なんですよね。自分の車の助手席に座る人って、誰かが戻ってくる場所を空けているんです。この方はそれを毎日見ている。他人の未練を毎日見るのは、それだけで消耗します。

シオン: 皆の話を聞いていて、ひとつ思うことがある。この方は「因果があるかないか」を問うている。けれど書かれている文章そのものは、因果の証明を求める人の書き方をしていない。もし本当に証明を求めているなら、タツヤ氏の店の売上や高木氏の婚約の経緯を、もっと執拗に調べて書くだろう。この方が書いたのは、蝉の鳴き方と床の黒い光と、助手席だ。

シオン: 因果を疑っている人は、世界の設計図を疑う。だが情景を書く人は、世界にまだ触れている。私にはそう見える。壊れたのは信仰ではなく、待つ姿勢のほうかもしれない。返ってくるはずのものがまだ返ってこない。その「まだ」を抱えていられなくなった夏なのだろう。

自分に問いかけるロードマップ

  • 私が「返ってくる」と思っていたのは、具体的に何だったのか。金銭か、称賛か、それとも誰かに大切にされることだったのか。名前をつけてみる。
  • タツヤ氏の幸福を私は外側から見ている。彼の家の中を、私は一度でも見たことがあるか。見たことがないものと自分の内側を、比べていないか。
  • 高木さんを「善」と呼ぶとき、私は彼を尊敬しているのか、それとも彼の沈黙に自分の未来を見て怖がっているのか。
  • 私が正直であることは、報酬を得るための手段だったのか。それともそうしていないと自分の顔を鏡で見られないという、もっと私的な事情だったのか。
  • 今日、私の身体は何時間眠り、何リットル水を飲んだのか。その数字を確かめたうえで、もう一度この問いを読み直せるか。

本日の羅針盤

第一章の時点で、答えを一本に束ねることはしない。今の段階で置ける杭は三本ある。

ひとつ。「良いことをすれば幸せになる」という文は契約書ではなく、願いの形をした文だった。契約が破られたのではなく、願いが期限を過ぎただけかもしれない。

ふたつ。他人の幸福は、常に完成品として見える。整備工場の看板に出す写真を、誰も故障中の状態で撮らない。

みっつ。この夏の疲れは、思想の問題と身体の問題が混ざっている。混ざったまま結論を出すと、たいてい後で撤回したくなる。

第二章では、「因果の帳簿はどこにあるのか」を扱う。ケンゴが数字と構造から、サキが生活の手触りから、この問いを分解していく。

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