エピローグ 誰も見ていない音
十二月の第一週は、一年を通して一番忙しい。県道沿いの工場に、朝から冬タイヤの予約が詰まっている。ピットの床は夏と違い、乾いて冷えている。厚手の靴下を二枚履いても、二時間で足の裏から芯まで冷えてくる。事務所の石油ストーブの上でやかんが鳴っていて、休憩に入るたび、あの湿った鉄と灯油の混ざった匂いを吸い込む。息が白い。ホイールナットを締めるインパクトの音が、冬は夏よりよく響く気がする。空気が硬いせいだろうか。
ある日、タツヤの店の前を通ったら、看板が消えていた。家族の写真が入っていたあの看板だ。土台の鉄枠だけが残っていて、コンクリートに四つのボルト跡がついていた。店は開いている。彼の車も停まっていた。何があったのかは分からない。聞いていないし、知るつもりもない。
ある日、高木さんが昼休みを事務所で過ごすようになっていた。軽トラの助手席ではなく、ストーブの前のパイプ椅子だ。誰かと何かを話すわけでもなく、コンビニのおにぎりを食べてスマホを見ている。それだけだ。理由は分からない。良くなったのか、諦めたのか、それとも別の何かなのか。私には判定する資格がない。
私は相変わらず、締め忘れたかもしれないと思えばもう一度リフトを上げる。冬は一日に何十本もナットを締めるので、上げ直す回数も夏より増える。誰も見ていない。上げて、覗いて、確かめて下ろす。それだけで三分かかる。
あの夏、私は因果のことばかり考えていた。今はあまり考えなくなっている。忙しいからかもしれない。でも、それだけではない気もする。
善いことをしたから、悪いことをしたからと考えていたところに、いつのまにか別の感覚が入ってきた。時間は流れるものだという感覚だ。誰かが帳尻を合わせに来るのではなく、ただ流れていって、その途中で看板が消えたり、座る場所が変わったりする。周りは変わらないように見えて、少しずつ変わっている。私もたぶん変わっているはずだ。その中で変わらずにあるものは何なのだろうと、リフトを下ろすときなど時々思う。
よりみちナビゲーターの対話
シオン: この方は答えを持って帰ってきた。ご本人が気づいていないだけだ。
シオン: かつて問われていたのは、善が幸福を連れてくるかどうかだった。今この方が書いているのは、看板のボルト跡と、パイプ椅子と、上げ直すのに三分かかるという時間の量である。
人を採点する言葉が、一つも入っていない。「私から見れば○○が善で、○○が悪です」と書いた人が、いま「判定する資格がない」と書いている。これは諦めではない。目の使い方が変わったのだ。
アキ: 私もそこ読んだとき、息が止まった。看板が消えてたって書いたあと、この人何も推測してないんだよね。普通なら書くよ。離婚したのかなとか、経営が厳しいのかなとか。書いてない。書かないことにしたんだと思う。
アキ: で、これってあの夏の相談への一番静かな答えになってる。「悪いことをした人は不幸になるのか」って問いに、この人はもう答えを求めてない。看板が消えたのを見て、ざまあみろとも可哀想とも思わなかった。ただ、ボルト跡が四つあったって覚えてる。それだけ覚えてるって、すごいことだよ。
サキ: ええ。私、高木さんの場所が変わったところを何度も読み返しました。軽トラの助手席からストーブの前のパイプ椅子へ。この方は「良くなったのか、諦めたのか、それとも別の何か」と書いていて、そのどれとも決めていません。
サキ: でも生活の側から見ると、ひとつだけ言えることがあります。冬に暖かいところで昼を食べるようになったんですよね。理由がどうであれ、寒い車の中からストーブのある部屋に移った。人が回復するときって、思想が変わる前に座る場所が変わるんです。私はそういうものを何度か見てきました。自分のときもそうです。だから私は、これを良い変化として受け取っておきたいです。当たっていなくてもいいので。
ケンゴ: 私からは数字の話を一つだけ。上げ直すのに三分かかるとこの方は書いている。冬に一日十回上げ直せば三十分だ。年間で計算すれば、相当な時間になる。誰にも請求できず、誰にも見られない三十分だ。
ケンゴ: 経営の立場で言えば、これは純粋な損失に見える。だが十年続けた人間の工場から、事故が出ていない。事故が出ない工場は、二十年目に生き残っている。そして生き残っていることは、誰にも褒められない。褒められないから本人も気づかない。この方が「返ってきていない」と感じていたものは、たぶん最初からこういう形で毎日返っていた。何も起こらないという形で。
ケンゴ: ついでに言えば、タツヤ氏の看板がなくなった理由を私も詮索しない。ただ、看板というものは外に向けて何かを証明する必要がある人が出すものだ。出さなくなった理由が、悪いものであるとは限らない。
シオン: さて、この方の最後の問いに戻る。変わらずにあるものは何か。
私はこう思う。変わらずにあるのは、信念ではない。信念はあの夏、一度壊れた。壊れてそのまま元に戻っていない。それでいい。
シオン: 変わらずにあるのは動作だ。上げて、覗いて、確かめて、下ろす。この四つは、因果を信じていた夏も、因果が薄れた冬も、まったく同じ形をしている。理由が変わったのに手つきは変わらなかった。ならばあの手つきは、はじめから因果では動いていなかったことになる。
シオン: 人は自分が何を信じているかを、言葉ではなく反復で示す。この方の反復は、報酬の期待が抜け落ちたあと一度も途切れていない。期待が抜けたあとに残ったものこそ、その人自身だと私は思う。あの夏、この方は「それでも道徳的に生き続けるべきか」問うた。問いに答えのないまま、答えを実行している。
シオン: 時が流れるものだと感じられるようになったなら、もう一つ気づくことがあるかもしれない。因果は人を裁くためにあるのではなく、人が自分の手つきを覚えておくためにあったのではないだろうか。天に帳簿がなくても、手には記憶がある。冬の朝、考える前にレバーへ伸びる手がある。それがこの方の、変わらずにあるものだ。
自分に問いかけるロードマップ
- あの夏と今とで、私の考えは変わった。では、私の手の動きは何か変わったか。変わっていないとしたら、それは何を意味するか。
- 看板が消えた理由を、私は推測しなかった。以前の私なら推測しただろうか。しなくなったのはいつからか。
- 高木さんがストーブの前に座っている。私はそれを見て、何も言わなかった。言わないことはこの一年で身につけたものか、それとも最初から持っていたものか。
- 誰にも請求できない三十分を、私は今年、何のために使ってきたのか。その使い道に名前をつけるとしたら、何になるか。
- 来年の八月、蝉の鳴き方が変わったことに私は気づけるだろうか。気づいたとき、去年の自分に何と言うだろうか。
本日の羅針盤
エピローグの羅針盤は、一本にしておく。四人の見方が今回は、ほとんど同じ方向を指したからだ。
変わっていくもの。 他人の看板、他人が座る場所、自分が信じていた因果の形。これらはすべて動く。動く理由は、たいてい教えてもらえない。教えてもらえないまま隣を通り過ぎることが、人と長く同じ土地にいるということだ。
変わらずにあるもの。 上げて、覗いて、確かめて、下ろす。報酬の期待が抜けたあとも残った、三分間の反復。信念が壊れても手つきが残ったなら、その人の芯は思想ではなく動作の側にあった。
因果があるかないかという問いは、時間が流れているという感覚に置き換わった。置き換わったことを後退と呼ぶ必要はない。裁く目を失って、覚える目が残ったのだから。
十二月のピットは冷える。足の裏から芯が冷えてくる。それでも今日もリフトの上がる音がして、誰もいない場所で誰かが車の下を覗いている。その音をこの工場のほかに、もう一人だけ知っている人がいる。




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