「正しく生きるのが馬鹿らしい」と感じたら。整備工場の夏と冬が教えてくれたこと

第三章 それでも、と言えるかどうか

よりみちナビゲーターの対話

シオン: 最後の問いに答える。「それでも、私は道徳的に生き続けるべきか」。私の答えは「べきか」どうかではなく、この方はもう答えを出している、というものだ。

シオン: この方は、締め忘れたかもしれないと思ったとき、もう一度リフトを上げた。そのとき誰も見ていなかった。報酬の話も、来世の話も、そこには無かった。それでも上げた。人が本当に信じているものは、こういう場面にしか現れない。「べきか」問うている人は、実は既に問う前の場所で身体を動かしてしまっている。

シオン: ただし、と付け加えたい。今のままでいいとは言わない。この方の正直さには一つだけ、荷を積みすぎている部分がある。「そうすれば返ってくる」という条件節だ。それは正直さを支える柱のように見えて、実は正直さに利子をつけて貸している。貸したものは、返らなければ恨みになる。恨みは正直さを、いちばん速く腐らせる。

アキ: それ、私すごく分かる。「いい人でいたら報われるはずでしょ」って思ってた時期の自分、いちばん性格が悪かったもん。人の幸せを見るたびに、心の中で採点してた。だから私は、相談者に一つだけ提案したい。正直さを貸すのをやめて、持ち物にしちゃうこと。

アキ: 持ち物っていうのはね、「これは私が好きでやってる」ってことにする。返ってくるかどうかを勘定に入れない。かっこつけて言うと、趣味にする。工場の床で、誰にも見られずリフトを上げ直すのが私の趣味ですって。そう決めたら、タツヤさんの看板を見ても採点する気持ちが少し減ると思う。

サキ: 私も同じ方向のことを言いたいです。ただもう少し生活寄りの言い方で。この方は道徳を続けるかどうかを決める前に、道徳を続けられる身体を先に確保したほうがいいと思うんですね。

サキ: 正直でいることは、実はコストの高い生き方です。ミスを自分の名前で報告する、大げさな売り方をしない。全部、短期的には損をする選択です。損を続けるには体力が要ります。
九月に入って涼しくなったら、まず一日、何もしない休みを取ってください。そのうえで冬用の作業着でも、いい工具でも、自分のために何か一つ買ってほしいんです。報酬が天から来ないなら、自分で自分に払っておく。これは奇麗事ではなく、経費の話です。

ケンゴ: 私からは実務的な補足を二点だけ。
ひとつ。高木氏に対して、相談者ができることは慰めではない。事実の記録だ。もし彼が引き受けた他人のミスについて相談者が実際の経緯を知っているなら、それを日付とともに自分の手帳に残しておくといい。使う日は来ないかもしれない。だが、真実を知っている人間がこの世に一人いるという状態は、本人が知らなくてもその人を守る。

ケンゴ: ふたつ。タツヤ氏とは競争しないほうがいい。彼と同じ物差しに乗った瞬間、こちらは必ず負ける。彼は速さで勝つ設計をしていて、相談者は長さで勝つ設計をしている。
設計の違うものを同じレースに並べると、どちらの良さも死ぬ。三十歳を前に決めるべきなのは善悪の判定ではなく、自分がどのレースを走っているかの確認だ。

シオン: 皆の言葉が揃った。では、私が最後に一つ置いておく。

シオン: 因果があるかないか。この問いに、私は結論を出さない。出せる立場にいないからだ。
ただ、こう考えることはできる。良い行いが幸福を連れてくるのではなく、良い行いは幸福が訪れたとき、それを受け取れる手の形を作っているのかもしれない。ずるい手で得たものは、握れるが置けない。置けないものは、いつまでも握っていなければならない。

シオン: 八月の終わり、蝉の鳴き方が変わったことに気づける人がいる。それに気づける耳は、正直に生きてきた年月と無関係ではないと私は思う。返ってきていないと感じているものは、案外、金額の形をしていないだけかもしれない。

自分に問いかけるロードマップ

  • 私の正直さを「貸したもの」から「持ち物」に書き換えるとしたら、その所有証明にあたる場面はどれか。誰にも見られなかった、あの一回を思い出せるか。
  • 私は自分に何を払っているか。この一年で、自分のために選んで買ったものを三つ挙げられるか。
  • タツヤ氏と自分は、同じレースを走っていないと言い切れるか。言い切れないなら、私が走りたいレースはどちらなのか。
  • 高木さんについて、私が知っている事実を日付とともに書き残しておく気があるか。
  • 十年後、私の隣に誰がいてほしいのか。その人は速さで勝つ人か、長さで持つ人か。

本日の羅針盤

問いは「それでも道徳的に生き続けるべきか」だった。無理に一本化せず、三本の視座を残す。

アキの羅針盤。 続けるべきかを、他人に決めさせないこと。返ってくるからやるのではなく、好きだからやると決めた瞬間、他人の幸福が自分の傷にならなくなる。

ケンゴの羅針盤。 正直さは報酬の予約券ではなく、切れにくさという性能である。長く同じ場所で働く者にとって、この性能は最終的に効く。ただし効くまでの期間、体力と生活を守る手当ては自分で用意する必要がある。

シオンの羅針盤。 因果の有無は確かめられない。確かめられないまま、それでも同じ手つきで生きることを、人は誠実と呼んできた。誰も見ていない場所でリフトを上げ直したことがある人は、すでにその言葉の内側にいる。

そしてサキから一つだけ、生活の側からの言葉を添える。

サキの羅針盤。 涼しくなったら、休んでください。善悪の答えは、涼しい日の朝に読み直したほうが正確に見えます。

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