夫婦の距離を置く?話し合う?沈黙が続く家に小さな音を立てる「カレンダー」の処方箋

第一章 八月の終わり、家の中がいちばん静かだった

「わがまま」と言われた夜から、僕は麦茶の氷が溶ける音ばかり聞いている

相談文要約

埼玉の郊外で、妻と二人で暮らしています。僕は三十一歳、家で紙の校正をしています。妻は三十五歳、総合病院の薬剤師です。結婚して三年、子どもはいません。

あの夜は八月の下旬でした。素麺を茹でた鍋の湯気がまだ台所に残っていて、換気扇を回しても部屋の温度が下がらない。僕は洗い物の手を止めずに「来週の土曜、新潟に帰りたいんだけど」と言いました。地元の川べりで花火が上がる日で、母から「顔を見せなさい」と短い電話があったんです。

妻はテーブルで爪を切っていました。手を止めて、「またそれ。私の休みくらい、一緒に過ごしたいんだけど」と言いました。爪切りの音が一回だけ、乾いた音で鳴りました。

でも、その前の週末、妻は職場の人たちと海に行っていました。僕は一人で、締め切りの近い専門書のゲラを机で読んでいました。

だから聞いてしまいました。「職場の人との予定は先に決めていいのに、僕の実家は後回し?」

妻は「仕事で疲れてるのに、わがままを言わないで」と言いました。その瞬間、三年ぶんの何かが喉から出ました。

「疲れてるのはわかってる。でも僕も、毎日この部屋で一人で原稿を読んで、洗濯物を畳んで、君が帰るのを待ってる。僕のことは考えてくれないんだね」

妻は何も言わずに寝室のドアを閉めました。翌朝は何もなかったような顔で「ゴミ出しといて」と言いました。僕は納得できませんでした。

それから家の中が、やたら静かです。妻は夜勤の希望を増やしたらしく、帰ってくる時間が遅くなりました。帰宅すると麦茶を一杯飲んで、イヤホンをして動画を見て、リビングのソファで寝てしまいます。交わす言葉は「おはよう」と「おやすみ」だけです。

僕から歩み寄る気力が出ません。悪いのは向こうのわがままだと思っているからです。でも、このままでいいはずがないこともわかっています。どうすればいいのかが、わからない。

先週、地元の同級生三人と駅前の焼き鳥屋で飲みました。一人は「お互い外に相手がいるけど、バレなきゃいい」と笑っていました。一人は「妻に好きな人がいるのは知ってる。でも子どもがいるから別れない」と言いました。もう一人は「籍を入れる形が窮屈だから、入れないまま子どもを育ててる」と言いました。

みんなそれぞれで、正解なんてないのかもしれません。でも僕は、この冷えた家を続けるべきなのか。それとも。

結婚三年でこの状態です。夫婦をやっていくことは、僕には難しすぎるのでしょうか。恋愛は結婚したら終わるものなのでしょうか。

よりみちナビゲーターの対話

サキ:まず、その夜のことをこんなに細かく覚えていらっしゃるんですね。爪切りの音が一回鳴った、というところまで。それって、あなたがあの瞬間にものすごく身構えていたということですよね。何を言われるか、身体が先にわかっていたんだと思います。

アキ:わかるよ、その感じ。台所に立ってて、背中で相手の返事を待ってる時間っていちばん長いよね。しかも「わがまま」って言葉、いちばん刺さるやつだ。あれは反論しにくいように作られてる言葉だから。

サキ:ええ。「わがまま」と言われると、こちらの希望そのものが性格の欠点みたいに扱われてしまう。あなたが言い返したのは我慢が足りなかったからではないと思います。三年ぶん溜めてから、やっと一度出したんですよね。

ケンゴ:私は少し違う角度から見たい。その夜、二人が争っていたのは新潟に帰るかどうかではないだろう。休日という限られた資源を、どちらの都合が先に押さえるか、その順番が三年間だれにも決められていなかった。それだけだと思う。
奥さんは職場の予定を先に入れる。あなたは母親からの電話を後から持ってくる。順番の設計がない家では、必ず先に動いた人が勝つ。

アキ:ケンゴさんの言うことは筋が通ってると思う。ただ、そこだけ説明されるとこの人が、「じゃあ次からカレンダー共有します」で終わっちゃう気がするんだよね。この人が痛かったのは順番じゃなくて、帰省したい気持ちが検討にすら値しないものとして扱われたことでしょ。

ケンゴ:アキの指摘は受け止める。ただ、気持ちを認めろと言うだけでは来月も同じ金曜が来る。彼の気持ちが軽く扱われるのは、扱う場所が家の中にないからだと考えている。

サキ:お二人の言うことは、たぶんどちらも同じ一点を指していますよね。ただ私は、それを話し合うための体力がいま、二人にどれだけ残っているかが気になります。夜勤明けの人と、締め切り前の校正をしている人。二人ともいちばん疲れた時間帯にしか顔を合わせていないんです。

シオン:静かな家、という言葉を使われた。私はそこに引っかかっている。冷えているのではなく、静かなのだと。壊れた家は、たいてい静かにはならないものだ。まだ音を立てないでいてくれる何かが、そこにあるのかもしれない。

サキ:ところであなたは「ゴミ出しといて」と言われて、出しに行かれたんですよね。

相談者:……行きました。

サキ:それが、いまの答えだと思います。歩み寄る気力が出ないと書かれていましたけど、あなたはすでにいちばん地味なやり方で家を回し続けている。それはまだ、終わらせていないという意思表示ですよ。

本日の羅針盤(第一章の暫定結論)

「恋愛が終わったから静かになった」のではなく、「話し合う場所を作らないまま三年過ぎた家が静かになった」。順番はこちらです。ここを取り違えると、あなたは自分の愛情の量を疑い始めてしまいます。疑うべきは量ではなく、置き場所です。

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