エピローグ 十月のページに、三つの丸
その後のこと(相談者の語り)
喧嘩から、ひと月が経っていました。八月の花火はとうに終わって、九月の彼岸も過ぎて、それでも僕は新潟に帰っていませんでした。
帰省の前の晩、僕は台所のテーブルにカレンダーを置きました。仕事で使っている方眼のノートを一枚破って、定規で線を引いて作ったものです。九月の残りと、十月。二枚。日付を書き込むのに三十分かかりました。印刷したものを貼ればいいのに、なぜか手で引きたかった。
「空けられる日に、丸をつけてほしい」
妻は洗面所から出てきたところで、髪をタオルで押さえていました。テーブルの上を横目で一度だけ見て、何も言わずに寝室へ行きました。ドアは、乱暴には閉まりませんでした。
翌朝、始発に近い電車で新潟へ向かいました。
意外だったのは、自分が思ったよりずっと楽になったことです。実家の座敷は畳が焼けていて、母は僕の顔を見て「痩せた」と言い、それだけでした。刈り終わった田が、家の裏まで続いています。夕方、中学の同級生から連絡が来て、川べりの土手に座って缶ビールを飲みました。
花火の櫓はもう解体されていて、川の水の音だけが聞こえました。風が、東京の風と違って、下から吹いてくる。九月の終わりの水は、思ったより冷たそうな音を立てました。幼馴染は去年から、トラックに乗っていると言いました。「俺、結婚してた頃より今のほうが眠れる」と笑って、それ以上は言いませんでした。僕も家のことは何も話しませんでした。話さないでいられたことが、少し嬉しかったです。
二日目は何もしませんでした。縁側で古い漫画を読んで、母が仏壇に上げた菓子の残りを食べて、日が落ちてから蚊取り線香を焚きました。この時期に焚くのは、たぶん母の癖です。心が平らになっていくのがわかりました。
でも、これからのことは何ひとつ考えられませんでした。妻に電話もしませんでした。向こうからも来ませんでした。
三日目の夜、部屋に帰りました。妻は夜勤で不在でした。エアコンはもう必要なくて、窓を開けて麦茶を出して、それからテーブルを見ました。カレンダーは、置いた場所から一ミリも動いていないように見えました。
九月のページに、丸はありませんでした。
ああ、と思いました。怒りではなく、軽い失望でした。予想していた分だけ、浅いところで済みました。
それでも指が動いて、紙をめくりました。
十月のページに丸が三つ、ついていました。
四日、十二日、二十五日。僕の書いた数字の上に、少しはみ出した青いボールペンの丸が三つ。
僕は立ったまま、それを一分くらい見ていました。麦茶の氷が、グラスの中で崩れる音がしました。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:……方眼のノートを、定規で。
相談者:印刷でよかったんです。でも、そうしたくなかった。
サキ:わかります。伝える道具を作っていたんじゃなくて、置く覚悟を作っていた時間ですよね。三十分かけて線を引いているあいだ、あなたはずっと、これを見られなかったらどうしようと思っていた。だから翌朝、横目で一度だけ見られたことで、もう終わったと思ってしまった。
アキ:うん、あそこで折れなかったのがすごいよ。私だったら寝室のドアが閉まった瞬間にカレンダー丸めてゴミ箱に入れてた。それを置いたまま出かけたんだよね。三日間、あの紙が誰もいない部屋にずっと置いてあったってこと。
ケンゴ:私が注目したのは、ドアが乱暴には閉まらなかった、という一行だ。あなたはあの夜、相手の反応を否定として記録しなかった。判断を保留して、家を出た。あれは気力が戻ったからできたことではない。気力がないまま、判断だけを先送りにできたということだ。私はこれを、このひと月でいちばん大きな前進だと考えている。
アキ:ケンゴさんの言うことはわかる。ただ、それを前進って言葉でまとめられると、この人が三日間ずっと抱えてた不安がなかったことになる気がするんだよね。この人、新潟で楽になったって書いてるけど、電話もしてないし、来てもいない。あの二日目の縁側、たぶんいちばん静かだったのは家じゃなくてこの人の中でしょ。
ケンゴ:アキの指摘は当たっている。認める。ただ、私が言いたいのは前進の称賛ではない。あの保留がなければ、十月のページはめくられなかったという構造の話だ。九月に丸がなかった時点で結論を出していたら、あなたはあの三つを一生見ないままだった。
サキ:そこは私もケンゴさんに同意します。ただ、順番を少し変えたいんです。あなたが十月をめくれたのは、判断を保留する技術を身につけたからではなくて、新潟で眠れたからだと思うんです。平らになった指が、一枚を動かした。体力の話が先に来るというのは、そういうことです。
シオン:丸は、少しはみ出していたと書かれていた。日付の枠から出ていたのだろう。人が急いで書いた丸ははみ出す。奥方は、ページの前に長くは立っていなかったのかもしれない。長く立っていられなかったのかもしれない。どちらであっても青いボールペンは、家のどこかから探して持ってこられたものだ。
相談者:……あのペン、僕が校正で使うやつです。赤と青を、机の筒に立ててあります。
サキ:机まで、取りに行ったんですね。
相談者:……はい。
アキ:それ、もう答えじゃん。
サキ:ええ。九月に丸がなかったことに、たぶん意味はありません。残りわずかだったんですから。丸をつけられる日が、本当になかったんだと思います。それを謝る言葉を、奥さんは持っていなかった。だから次の月に三つ置いた。
ケンゴ:三つという数も、私は見ておきたい。一つなら義務だ。五つなら勢いだ。三つは、翌月のシフト希望を出したうえで、自分の体力と見比べて、実際に出せる数を数えた人間の出し方だと思う。九月の末という時期は、ちょうど十月の勤務が固まる頃だ。私はそれを返事として、非常に具体的だと評価する。
サキ:ところで、いちばん大事なことを聞いていませんでした。あなたはその三つの日をどうするつもりですか。
相談者:……四日に、赤で丸を重ねようかと思っています。同じ形に。
サキ:それがいいと思います。言葉より先、紙の上に。
自分に問いかけるロードマップ(最終)
これから先、この関係を続けていくにあたって。答えを出さなくてかまいません。
- 十月四日に丸を重ねたあと、あなたはその日を「話し合いの日」にしたいですか。それともただ、二人でいる日にしたいですか。最初の一日を会議にしないという選択も、十分に戦略です。
- 新潟で「話さないでいられたことが嬉しかった」と書かれました。あなたは家の中でも同じ時間を持てていましたか。黙っていられる静けさと黙らされている静けさは、別のものです。
- カレンダーは、来月も出しますか。一度うまくいった道具は続けないと元に戻ります。十一月のページを、十月のうちに作っておけますか。
- もし妻が「あの夏の夜のことは、ごめん」と一度も言わなかったとして、あなたはそれでもこの関係を続けられますか。丸三つで足りるのかどうかは、あなたにしか決められません。
- あなたが三日間、電話をしなかった理由を、あなた自身はどう説明しますか。この問いはしんどければ飛ばしてください。今すぐ答える必要はありません。
本日の羅針盤(最終・エピローグ)
サキの視座:あなたが手で線を引いた三十分と、新潟で平らになった心と、机まで青いペンを取りに行った誰かの足音。この三つでもう十分です。恋愛だったものが何に変わったのかは、十月四日の夜に二人で麦茶でも飲みながら、わからないままにしておいてください。わからないまま続いている関係は、思っているよりたくさんあります。
ケンゴの視座:設計は動いた。次の課題は継続だ。十月に三つ丸がついたことより、十一月のページが作られるかどうかでこの家の行方は決まる。感情の総括は、まだしなくていい。三か月続けてから振り返れば、あの八月の夜の意味はいまと違って見えるはずだ。
アキの視座:横目で見られただけなのに、この人は折れていない。それがいちばん強かった。次に伝えたいことがあるときも同じでいい。返事が来ない前提で置いて、そのまま自分の予定を生きること。返事はこっちが元気なときにしか読めないから。
シオン:あなたは八月に、家の静けさを監視していた。十月には机の筒から一本抜かれたペンのことを考えている。同じ部屋にいて、聞いているものが変わった。エアコンは止まり、風鈴はそろそろしまう頃だ。



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