第一章 七時と九時
搬入口で「あなた、三年目でしょう」。帰りの電車で退職の検索を増やした
八月の終わりでした。まだ夕方の六時なのに、アスファルトから足の裏に熱が上がってきて、養生テープを貼る指が汗で滑る。私は都内の展示会施工会社で、制作アシスタントを三年やっています。二十五歳、大田区のワンルームで一人暮らし。玄関の靴箱の上に、去年もらった小さな観葉植物が一つだけ置いてあります。
千葉の会場でおこなわれる精密機器メーカーの内覧会でした。搬入開始時刻が「午前九時」から「午前七時」に前倒しになった進行表の第四版を、私は開かずに、電気設備の協力会社さんへ第三版の内容で連絡しました。
当日の朝七時、業者さんのトラック二台は会場の外で止まっていました。ゲートが開くのは九時だと聞いていたからです。二時間の遅れがそのまま照明の試験点灯にずれ込んで、クライアントのオープニング挨拶が三十分押しました。
チーフの成田さんは四十七歳の女性。三年間、私は一度も怒った声を聞いたことがありません。搬入口のシャッターの音がやんだあと、その成田さんは私を見てこう言いました。「あなた、三年目でしょう」。
それだけでした。その一言で、この三年に貼りつけてきたものが進行表の第四版を開かなかった三十秒で、全部剥がれたのだと分かってしまいました。
それから毎晩、同じところに戻ります。一度失った信頼は戻らない。私が抜けたほうがあのチームは軽くなる。退職を本気で考えて、けれど次の瞬間、ミスをするたび会社を変えるつもりか自分に問い返して、外が明るくなります。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:まず、シャッターの音がやんだあとの時間のことを少し聞かせてください。会場の中って機材の音が消えると、急に自分の汗の匂いだけが残りますよね。真夏の搬入口で、萌さんはその静けさの真ん中に一人で立っていた。それだけでもう、体力の限界を超えていたと思います。
アキ:わかるよ。「あなた、三年目でしょう」って、字にすると九文字なんだけど、こういうのが一番効くんだよね。長く詰められるより、一行で終わるほうが逃げ道がない。しかも普段怒らない人だと、頭の中で勝手に計算が始まる。「この人を怒らせるレベルまでやったんだ」って。それ、あるよね。三年目って年次が、いちばん逃げにくいところに来てるのもきつい。新人でもないし、まだ大きな実績もない。
ケンゴ:二人の受け取り方に異論はない。ただ、私は最初に事実の整理をしておきたい。萌さんが失ったものの大きさを、正確に測ることから始めるべきだと思う。
今回起きたのは、進行表の版管理が個人の確認に委ねられていて、最新版の参照が抜けたという工程上の一点だ。結果として協力会社二社の待機二時間、試験点灯の遅延、クライアントの式次第の三十分の押しが発生した。軽い話ではない。私も現場を持つ立場として、待機の連絡が入ったときの空気は知っている。
だが、萌さんが失ったのは「三年」ではない。失ったのは「この人が業者へ流す情報は最新版である」という一つの前提だ。信頼というのは一枚の板ではなく、いくつもの前提が重なって出来ている。今回外れたのは、そのうちの一枚だ。
アキ:ケンゴさんの言うことは分かる。ただ、そこは一回止まってほしい。「外れたのは一枚」って整理は正しいと思うんだけど、いま萌さんが立ってる場所からは、そういう景色に見えないんだよ。帰りの電車で退職の検索履歴を増やしてる人に必要なのって、まず今日を終わらせる方法でしょ。構造の説明って、もう立てる人にしか届かないことがある。
ケンゴ:その指摘は受け取る。順番の問題だ。だが私は、萌さんが眠れない原因そのものが「構造が見えていないこと」にあると考えている。
全部を失ったと思っているから、全部を手放す(退職する)以外の手が浮かばない。何が外れて、何が残っているのかを線で引けるなら、辞めるという最も大きな手段を今日使わずに済む。私はそれが今日の萌さんを守る道だと思う。
サキ:ところで萌さん、その日から今日まで、靴箱の上の鉢に水はやれていますか。
自分の全部がだめだと思っているときでも、水やりだけは続いている人が多いんです。それって萌さんの三年が、「進行表を開くこと」だけで出来ていなかった証拠でもありますよね。
シオン:成田さんという方は三年、あなたに声を荒げなかった。荒げる必要がなかったからだ。
人は期待していない相手には短い言葉を投げない。そのときの九文字は剥がれた音だったのか、それとも三年ぶんの前提が驚いた音だったのか。今夜の私には、まだ決められない。
自分に問いかけるロードマップ
- 「信頼を失った」と思うとき、私は具体的に誰の、どの前提が変わったと考えているだろうか。成田さん一人のことか、チーム全体のことか。
- 三年のあいだに私が積んだものを、版の確認以外に三つ挙げられるだろうか。
- 「私が抜けたほうがチームは軽くなる」と考えるとき、その軽さは誰かの残業に置き換わる前提を含んでいないだろうか。
- 退職の検索をしている自分にいま足りていないのは答えだろうか。睡眠だろうか。
本日の羅針盤
外れたのは三年ではなく、一枚の前提である。
ただし、ケンゴが言うようにその線引きが救いになる人と、アキが言うようにまず眠ってしまいたい人がいる。萌さんが今夜どちらなのかは、萌さんにしか分からない。第二章では、外れた一枚をどう掛け直すのかを手順として扱う。
なお、自責と「自分がいなくなったほうがいい」という発想が二週間以上続いている場合、それは反省の範囲を超えた疲弊のサインとして扱ったほうが安全です。会社の産業医や地域の相談窓口など、専門機関への相談もご検討ください。




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