エピローグ 防炎シールのない幕
「あなた、私がミスひとつせずここまでやってこれたと思ってるの?」
九月の半ばでした。夕方になると搬入口を抜ける風が少し乾いていて、八月の終わりにあの現場で汗を拭いていたのが、もう遠い出来事のように感じられる。私はその日、事務所の給湯室で成田さんと二人になったとき、自分でも思っていなかったほどあっさりと切り出しました。
辞めようと思っていました、と。あの日から毎晩、自分が抜けたほうがこのチームは軽くなると考えていましたと。
成田さんは、マグカップを洗う手を止めませんでした。どこかで察していたのだと思います。水を止めて布巾で指を拭いて、ため息を一つついてから私を見ました。
「あなた、私がミスひとつせずここまでやってこれたと思ってるの?」
三十三歳のときの話でした。大阪の見本市で、成田さんは天井から吊る大判の幕を手配したそうです。クライアントのロゴが入った、一年かけて決まったデザインの幕。その生地に、防炎の表示がありませんでした。会場の事前検査で、全部落とされたそうです。
「その場で消防の人が『これは吊れません』って言った瞬間の音、まだ覚えてる。会場、あの日ちょうど空調が効きすぎててね。寒かった」
徹夜で代替の幕を作り、初日の朝に間に合わせた。けれどクライアントの担当者が一年かけて社内を通した色は、その幕には出ていなかった。当時の上司には「お前は人の一年を落としたんだ」と言われたそうです。
「私、退職届書いたよ。文面まで書いた。出さなかったけど」
出さなかった理由を、成田さんは言いませんでした。マグカップを棚に戻して、こちらを振り返らずにこう言っただけです。
「よく考えなさい」
それだけで、給湯室を出ていきました。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:ずるいよ、成田さん。理由を言わずに出ていくの、いちばん残るやつだ。
でも私、この人の話し方でいちばんぐっときたのが「寒かった」ってところなんだよね。防炎の表示がなかったとか、上司に何を言われたとかより先に、会場の空調の話をしてる。それって十四年経ってもその日の皮膚の感覚が残ってるってことでしょ。萌さんが搬入口の熱をずっと覚えてるのと、たぶん同じだよ。
ケンゴ:私は成田さんが萌さんに渡したものの性質について話したい。
それは励ましではない。記録の引き渡しだ。
チーフという立場にいる人間が、自分の失敗の年齢と場所と種類を、ここまで具体的に部下へ渡すのは簡単なことではない。私も管理職として言うが、これは自分の権威を一段下げる行為だ。それでも渡したのなら、目的は一つしかない。萌さんにこの会社では失敗の後に続きがあるという事実を、実例として示すためだ。
成田さんは三十三歳で人の一年を落とし、退職届を書き、しかし出さず、十四年後に四十七歳のチーフとしてあの搬入口に立っていた。これが萌さんの目の前にある唯一の実証データだ。「一度失った信頼は戻らない」という萌さんの仮説は、この一件で反証されている。
サキ:ケンゴさんの読み方に、私もほとんど同意します。ただひとつだけ言わせてください。
先輩の失敗談って救いにもなりますが、比較の材料にもなるんですよね。萌さんのような方は、聞いたあとで必ずこう考えます。「成田さんは徹夜で間に合わせた。私は間に合わせられなかった」と。「あの人は一年ぶんを落とした。私はたった二時間。それで辞めたいと思ってる自分は弱い」と。
十四年後の成田さんと、九月の萌さんを並べてはいけません。並べたら、萌さんは必ず負けます。十四年ぶんの記録を持っている人と、三年の人を比べているだけですから。
ケンゴ:その懸念は正しい。私の言い方だと、成田さんを到達点に置いてしまう危険がある。訂正させてほしい。
萌さんが見るべきなのは、四十七歳の成田さんではない。退職届を書いて出さなかった三十三歳の成田さんだ。その夜の彼女は、まだ何一つ取り戻していない。翌朝の代替幕がクライアントの色と違うことも分かっている。それでも辞表を出さなかった。
萌さんが今いる場所はそこだ。到達点ではなく、分岐点。比べるなら、その一点だけを比べればいい。
サキ:ええ。その一点でしたら、並べても萌さんは負けませんね。
萌さん、成田さんが理由を言わなかったことについて、少しだけ。成田さんはきっと、言えなかったんだと思います。あのとき出さなかった理由なんて、後から振り返ってもそんなに立派なものではないんですよ。次の現場の日程が決まっていたとか、家賃の引き落としが近かったとか、その程度のことでも人は留まります。そして残ってしまった人だけが、十四年後に給湯室で話す側に回る。
だから「よく考えなさい」は、立派な理由を見つけてこいという意味ではないと思います。
シオン:成田さんは寒かったと言った。あなたは熱かったと覚えている。
同じ会社の同じ仕事で、正反対の温度を抱えた者が二人、九月の給湯室で向かい合った。それだけのことが起きたのだと、私は思う。
落ちた幕は、色が違った。それでも、その色違いの幕の下で見本市は三日間開かれた。誰かが立ち止まり、誰かが名刺を出し、誰かが商談をした。完全には戻らなかったものの下で、人は普通に働いている。
戻らないことと続かないことは、同じではないのだろう。
自分に問いかけるロードマップ
- 成田さんが渡してきたのは、慰めだろうか。それともこの会社では失敗の後に続きがあるという記録だろうか。
- 私は今、十四年後の成田さんと自分を並べていないだろうか。並べるべきなのは、退職届を出さなかった夜の彼女ではないだろうか。
- 「よく考えなさい」と言われて、私が考えなければいけないのは辞めるか残るかだろうか。それとも明日、一枚の進行表をどう回すかだろうか。
- 十四年後、私が給湯室で誰かに話す側に回ったとして、そのとき私は八月の終わりの何を覚えているだろうか。日付だろうか、熱だろうか。
本日の羅針盤(エピローグ)
ケンゴの針:成田さんが渡したのは励ましではなく記録である。「一度失った信頼は戻らない」という仮説は、目の前の一人によって既に反証されている。あなたが比べるべきは四十七歳の到達点ではなく、彼女が退職届を出さなかった三十三歳の分岐点だ。
アキの針:十四年経っても、あの人は会場の寒さを覚えていた。それは傷が消えていないという意味でもあるし、消えないまま働けるという意味でもある。萌さんの熱も、たぶん消えない。消えないままで続けられる。
サキの針:残る理由は、たいてい立派ではない。次の現場の日程や、家賃の引き落としで人は残る。そして残った人だけが、いつか話す側に回る。だから今週は、眠ることだけ考えてください。
シオンの余韻:戻らないことと続かないことは、同じではない。色違いの幕の下で、見本市は三日間開かれた。
萌さんへ。この四回を通してお伝えしてきたことは結局のところ、一つに戻ります。判断は、眠れている人がするものです。今のところその条件が整っていないのなら、まず条件を整えるほうが先になります。



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