第三章 辞めるという手段の使
三か月やってみます。ただ、正直に言うと退職のことは、まだ頭から消えていません。
よりみちナビゲーターの対話
ケンゴ:それでいい。消さなくていいと私は思う。
そのうえで、第一章から預かったままにしていた話をする。「私が抜けたほうがチームは軽くなる」という考えについてだ。
制作アシスタントが一人抜けた現場はどうなるか。私の経験から言えば、軽くならない。搬入の連絡と版の配布は誰かの兼務になり、その誰かは自分の担当業務を抱えたまま片手で処理する。確認は今より粗くなり、半年から一年のうちに、同じ種類の遅延がもう一度出る。
今回の見落としは萌さん個人の性格が起こしたのではなく、最新版の参照が一人の記憶に依存していた工程が起こした。人を替えても工程が残るなら、事故も残る。
つまり萌さんの退職は、チームのためにはならない。これは慰めではなく、私が何度も見てきた事実だ。
アキ:うん。それに辞めるっていう選択肢自体は、悪者じゃないんだよね。悪いのは辞めるを「消えたい」の言い換えとして使うこと。この二つ、外から見ると同じ行動なんだけど、中身がまるで違う。
萌さん、想像してみてほしいんだけど。三か月後、あの一枚がちゃんと回って、成田さんが普通の顔で「これ、業者さんに投げといて」って言ってくるようになったとして。それでもまだ辞めたいと思っていたら、それは本物の希望かもしれない。もっと自分で企画を持ちたいとか、夏の現場から離れたいとか。そのときは全力で背中を押すよ。
いま辞めるのだけはもったいない。だって今の萌さんの退職届って実は萌さんが書いてるんじゃなくて、八月末の搬入をやりきったまま眠れてない人が書いてるんだもん。
サキ:眠れていない人の判断ですね。ほんとうに、そのとおりだと思います。
萌さん、退職の申し出はたいてい就業規則で期限が決まっています。つまり辞めるという手段は、来月も来年もそこにあるんです。急いで使わなくても減りません。減っていくのは萌さんの体力のほうです。
だから順番としてはまず一週間、夜に眠ることを目標にしてください。私はそこがいちばん難しくて、いちばん効くところだと思っています。それでも朝が来ないようなら自分の意志の問題にしないで、産業医や地域の相談窓口を使ってください。判断の材料が足りないのではなく、判断する体が足りていない状態ですから。
シオン:七時と九時。あなたが見落としたのは、二時間だった。そして今、あなたは自分の三年からも数字を消そうとしている。
七時と九時のあいだの二時間を、あなたは誰かの手違いだと思っただろうか。それとも自分の存在の証明だと思っただろうか。
成田さんが「その話はもういいよ」と言ったとき、あの人は図面の上に手を置いていた。手は止まっていなかったはずだ。仕事を続けている人の言葉は、たいてい続けろという意味を含んでいる。
進行表は、間違えたら次の版が出る。人はそもそも版を重ねる紙ではないのだから、直す必要すらないのかもしれない。置き方を変えるだけで、水は違うところへ流れていく。
自分に問いかけるロードマップ
- いまの私の退職届は、「別の仕事を選ぶための退職届」だろうか。「消えるための退職届」だろうか。この二つを紙に書き分けられるだろうか。
- 三か月後、成田さんが普通の顔で仕事を渡してくる日が来たとして、それでも私は辞めたいだろうか。
- 今週、私が確保できる睡眠は何時間だろうか。それを増やすために、今日やめられることは何だろうか。
- 私が抜けたあと、この連絡経路を誰が持つのか。その人は私と同じ版番号を見落とさずにいられるだろうか。
本日の羅針盤(総括)
本日、羅針盤は一本の針を指しません。三つの視座を残します。
ケンゴの針:外れたのは三年ではなく、一枚の前提である。前提は手順で掛け直せる。あなたの退職はチームのためにはならない。遅延を起こしたのは一人の記憶に依存した工程であり、人を替えても工程が残れば事故も残る。
アキの針:辞めるという手段は、希望として使うぶんには悪くない。ただし今夜のあなたが書く退職届はあなたではなく、眠れていない人が書いている。その判断は、三か月後の自分に預けていい。
サキの針:辞める権利は減らないが、体力は減る。まず一週間眠ること。生活が回っている人の判断だけが、その人自身のものになる。
シオンの余韻:仕事を続けている人の「もういいよ」は、たいてい続けろという意味を含んでいる。
萌さんへ。今回の相談文には、強い自責と、自分が抜けたほうがいいという発想が書かれていました。真面目な方に起こる自然な反応でもありますが、二週間以上続く場合、あるいは眠れない日が続く場合は、性格や気の持ち方の問題として抱えないでください。会社の産業医、地域の精神保健福祉センター、公的な相談窓口など、専門機関への相談もご検討ください。人に話す行為そのものが、判断の精度を上げます。



コメント