病気の自分は、相手の人生の「負担」なのか──四人の視点で考える恋愛と闘病

部屋は別々にできないかな

退院は、来週の火曜日だと言われた。

手術から二か月。胸の真ん中に走った傷はまだ赤くて、シャワーのお湯が当たるたびに自分の体が自分のものじゃないみたいな感覚になる。担当の先生は「経過は順調ですよ」と笑ってくれたけれど、その「順調」という言葉の中に、これから何年もかけて確かめていかなきゃいけない時間がまるごと畳まれている気がして、私はうまく笑い返せなかった。

陽子さん──仮にそう呼ばせてください──と知り合ったのは、去年の秋でした。地元の写真サークルの撮影会で、彼女が貸してくれたレンズキャップを私が落として転がしてしまったのが最初です。四十一歳の私と、三十八歳の彼女。お互いに一度も結婚をしていなくて、いい歳して何やってるんだろうねと笑い合えるくらいには、最初から話が合いました。

付き合って三か月目に入った頃、健康診断で引っかかって、そのまま心臓の手術になりました。先天的なものが、ここまで見つからずに来ていたらしい。陽子さんは、職場から車で四十分かかる病院までほとんど毎日、面会に来てくれました。仕事帰りの、化粧の崩れた顔のまま。差し入れの林檎をベッド脇の小さなナイフで剥いてくれながら、「来週、土曜あいてる?」と聞いてきたのがつい先週のことです。

退院したら、近場の温泉に一泊しようと。

私はしばらく黙ってから、こう答えてしまったんです。「行きたい。けど、部屋は別々にできないかな」と。

彼女の顔が、一瞬だけ止まりました。

「それなら、もう会わなくていいです」

そう言って彼女は病室を出ていきました。林檎の皮が、まだ皿の上で渦を巻いていました。

本当は、伝えたかったんです。これから一生、定期検査と付き合っていくこと。再発のリスクがゼロにはならないこと。そんな男の人生に彼女を巻き込んでいいのかが、わからなくなったこと。知り合って半年。傷が浅いうちに離れたほうが、彼女のためなんじゃないかと思ってしまったこと。

でも、毎日面会に来てくれたあの疲れた顔を思い出すたびに、胸の真ん中の傷とは別のところが、ぎゅっと痛むんです。

四人の声が、ひとつの部屋に集まる

アキ「ねえ、これさ──まず最初に言わせて。『部屋を別にしたい』って言ったあなた、めちゃくちゃ正直で、めちゃくちゃ優しい人だよ。手術の傷もまだ生々しいのに、彼女の前で『元気な恋人』のふりをしないって決めた。それって本当は、すごく勇気がいることだったと思う」

サキ「そうですよね。退院前って自分の体がこれからどう動くのか、自分でもまだ掴めていない時期ですもんね。私も子どもを産んだあと、半年くらいは『以前の自分』と『今の自分』のあいだで、どっちが本物か分からなくなった時期がありました。その状態で、一泊の旅行で同じ部屋──というのはたぶん体より先に、心が追いつかないんですよね」

ケンゴ「二人の言うことは、わかる。ただ、ひとつだけ整理させてくれ。この方が本当に悩んでいるのは、温泉旅行の部屋割りじゃない。『自分の人生に、彼女を巻き込んでいいのか』という、もっと大きな問いだろう。そしてその問いを彼女に投げかける前に、自分の中で答えを出そうとしている。そこに、私は引っかかる」

アキ「……それ、どういう意味?」

ケンゴ「『彼女のために身を引く』という選択肢を相談せずに、一人で握り込もうとしているということだ。それは優しさのように見えて、実は彼女から『選ぶ権利』を取り上げる行為でもある。毎日面会に通った人を、当人の意思を確認しないまま『傷が浅いうちに』と言い切れるだろうか」

アキ「……ケンゴさんの言ってること、頭ではわかるよ。わかるんだけどさ。でも、ケンゴさん。手術明けのまだ自分の体に慣れてもいない人に、『さあ全部話し合いましょう』ってのは、ちょっと早くない? まずは自分が今夜眠れるかどうか。そこからじゃないと、誰かの未来の話なんてできないよ」

サキ「アキさんのお気持ちもわかります。ただ──私は少し違って感じていて。陽子さんは、もう待っているんですよね。林檎を剥きながら、土曜の予定を聞いてきた人です。その人を『自分の準備ができるまで』待たせ続けるのも、それはそれで、相手の時間を一人で抱え込むことになるんじゃないかと」

シオン「……『会いたくない』という言葉は、必ずしも『別れたい』と同じ意味ではないはずだ。林檎の皮が皿の上に残されたまま、彼女は部屋を出ていった。片付けて出ていかなかったということの中に、何かが残されているようにも思える」

気づきの場所──「巻き込む」という言葉の重さ

アキ「ねえ、ひとつだけ聞いていい? あなたは『闘病の人生に巻き込んでいいのか』って書いてくれたよね。その『巻き込む』っていう言葉、ちょっと立ち止まって見てほしいんだ」

アキ「もし陽子さんが先に病気になっていたら、あなたは『私の人生に巻き込まれてかわいそう』って、自分のことを呼んだかな? たぶん、呼ばないよね。『隣にいる人』って呼んだはず。──だとしたらその言葉、ちょっとだけ不公平じゃない? 自分のときだけ『負債』にしちゃってる」

ケンゴ「健康な側にいたいという願いと、健康な側にしか居場所がないという思い込みは、似ているようで違う。あなたが本当に怖いのは再発そのものよりも、再発したときに彼女の顔に浮かぶかもしれない後悔の表情ではないだろうか。だが、その表情はまだ存在しない。存在しないものを根拠に、目の前の人を遠ざけている」

サキ「『婚前旅行だから部屋を別にしたい、結婚したらもちろん一緒の部屋になります』──このお言葉なら、私は嫌いじゃないんです。律儀で、あなたらしい。ただ、陽子さんが受け取れなかったのはたぶん部屋の話そのものじゃなくて、あなたが何かを一人で抱え込んでいる気配のほうなんですよね。女の人はそういう気配に、けっこう敏感なんです」

本質──手放そうとしているのは、彼女の未来ですか。それとも、あなた自身の「弱い姿を見せる権利」ですか

あなたは心の一部で、彼女のために身を引こうとしている。けれどその判断の中には、もうひとつ別の動機が混ざっているかもしれません。「術後の自分を、丸ごと見せていいのか」「弱った姿で、なお選ばれる自信がない」──そういう自分自身の不安です。

これは悪いことではありません。誰だって、削れた状態で人前に立つのは怖い。ただ、その怖さを「彼女のため」と言い換えて遠ざけるのは、優しさの形をした自分を守る盾でもあります。

結論を急ぐ必要はありません。ただ、ひとつだけ。「会わない」と決める前に一度だけ、彼女に正直に言ってみる選択肢があります。「巻き込みたくないと思っていた。でも、本当は怖かった。あなたに術後のかっこ悪い自分を毎日見られるのが」と。

その言葉を聞いてから、彼女が選ぶ。それが毎日面会に通ってくれた人への、いちばん誠実な返し方ではないでしょうか。

なお、退院直後は身体だけでなく、心の波も大きくなりやすい時期です。一人で抱え込みすぎていると感じたときには、病院の相談窓口や地域の患者支援の窓口など、専門の方に話を聞いてもらうことも、どうかご検討ください。

シオン「林檎の皮は、まだ皿の上にあるのだろうか。誰かが片付けるまで、それは残り続ける。彼女が片付けて帰らなかったということ──その小さな事実の中に、あなたが思っているよりも長い時間が流れているのかもしれない」

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