病気の自分は、相手の人生の「負担」なのか──四人の視点で考える恋愛と闘病

第三章 味噌汁の湯気の向こうで

退院して、四日目の夜でした。

陽子さんが、うちの台所に立っていました。私が炊いたご飯と、彼女が持ってきてくれた鮭の切り身と、二人で適当に作った味噌汁。具は大根と油揚げ。冷蔵庫にあったものを、彼女が「これ、入れていい?」と聞きながら刻んでくれました。

マンションの台所は狭くて、二人で並ぶと肩が触れます。退院してから人の肩が自分の肩に触れたのは、これが初めてでした。

「ねえ、」と、味噌汁を椀によそいながら彼女が言いました。

「あの病室で、私、ひどい言い方したよね」

「いや、」と、私は言いかけてやめました。

「怖かったんだ」

そう言ったとき、自分の声が思っていたよりも低くて、自分で少し驚きました。

「術後の自分を、まだ自分でうまく扱えてなくて。シャワーのお湯が傷に当たるたびに、ああ、これからずっと、この体と付き合っていくんだなって、毎朝思い知らされる。そういう自分を、毎日見られるのが怖かった」

「だから、部屋を別に?」

「うん。線を引いたつもりはなかった。でも、引いてた」

彼女は味噌汁の椀を私の前に置いて、自分の椀を取って、向かいに座りました。湯気が二人のあいだに上がっていました。

「私ね、」と、彼女は箸を取りながら言いました。「面会に通ってたのは、あなたを心配してたからじゃないの。私があなたに会いたかったから。それだけ」

味噌汁は、少し薄かったです。彼女が「だしの素、もうちょっと入れればよかったね」と笑って、私も笑いました。

笑いながら、定期検査の話も再発のリスクの話も、今日はまだしていないことに気づきました。たぶんまた別の夜に、別の食卓でぽつりぽつりと話していく。そういう速さでいいのかもしれない、と思いました。

四人が、その食卓を見届ける

アキ「……いいなあ、これ。味噌汁が薄かった、っていうディテールが、もう全部を言ってる気がする。完璧じゃない夜だから、続いていける」

サキ「だしの素、もうちょっと入れればよかったねって言える関係なんですよね。手術明けの人と毎日通った人が、味噌汁の濃さで笑える。これは結婚相談所では絶対に作れない時間です」

ケンゴ「いい場面だ。──ただ、ひとつ言わせてくれ」

アキ「お、ケンゴさん、出番来た」

ケンゴ「茶化さないで聞いてほしい。この食卓はたしかに美しい。だが、ここで物語を閉じてしまうのは、私は危険だと思っている」

アキ「……どういうこと?」

ケンゴ「『怖かった』と言えた。彼女が『会いたかった』と返してくれた。味噌汁が薄かった。──これで全部解決した、と読み手に錯覚させてしまうのは、この方への誠実さを欠く。本当の難しさはこれから始まる。半年後、一年後、定期検査の数値が少しでも揺れたとき、この方はまた『巻き込んでいいのか』に戻りかける。そのとき戻らないでいられる根拠を、今夜の食卓だけに置くのは軽すぎる」

アキ「……ケンゴさん。私もね、それは思った。思ったんだけど、でも──」

アキ「『これで全部解決した』って書きたいわけじゃないんだよ。むしろ逆。今夜はただの一夜なんだって、ちゃんと言いたい。完璧な打ち明け話でも、感動の和解でもない。味噌汁が薄かっただけの平日の夜。こういう夜がこれから何百回もあるってことを、信じられるかどうかなんだと思う」

サキ「お二人とも、別のことをおっしゃっているようで同じことを言われていると思うんですよね。
ケンゴさんは『一夜で解決と思うな』、アキさんは『一夜は一夜でいい』。──たぶん、両方が成り立ちます。今夜は今夜のぶんだけ大切で、明日の朝にはまた、別の難しさが立ち上がる。それを引き受けられる関係に、少しずつなっていくということなんでしょうね」

ケンゴ「……ああ。サキさんの言うとおりだ。私は物語を綺麗に閉じることを警戒しすぎていたかもしれない」

アキ「ううん、ケンゴさんが釘を刺してくれてよかったよ。じゃないと私、たぶん『よかったね!』で終わらせちゃってた」

相談者へ、そして読者へ──最後に渡したい言葉

アキ「ねえ、最後にね。私からあなたに伝えたいことがあって」

アキ「『巻き込んでいいのか』って悩んでた頃のあなたは、自分のことを相手の人生にとっての『負担』と思ってたよね。でも、今夜の食卓で味噌汁が薄かったって笑った瞬間に、あなたはもう負担じゃなくて『相方』になってる。それはあなたが何かを克服したからじゃなくて、彼女がそう扱ってくれたからでもなくて、二人でその場所まで一緒に歩いたから。それを忘れないでほしい」

サキ「私からは、もう一つだけ。これから検査の前の夜とか、誰にも言えない不安が湧き上がる夜がきっと来ます。そういうとき、陽子さんに全部を背負わせる必要はないんです。患者会でも主治医でも、地域の相談窓口でもいい。陽子さん以外にも話を聞いてくれる場所をいくつか持っておいてください。それが結局、陽子さんとの関係も長持ちさせます」

ケンゴ「私からは、ひとつだけ。『彼女のために身を引く』という選択肢は、これからも何度かあなたの前に現れる。再発の不安が強まったとき、検査で気になる影が見えたとき、彼女が疲れた顔で帰宅した日。そのたびにその選択肢は、優しさの顔をしてやってくる。──思い出してほしい。あなたが彼女から取り上げそうになっているのは、『選ぶ権利』だ。彼女が毎日面会に通って獲得したその権利を、勝手に返却しないでほしい」

三章を通しての核──関係は打ち明けて完成するのではなく、薄い味噌汁を一緒に飲める速度で続いていく

あなたは最初、彼女に「巻き込んでいいのか」問うていました。けれど物語の終わりに、彼女は「会いたかっただけ」と返してくれました。この差は、たった一晩で生まれたものではありません。毎日の面会、皿に残された林檎の皮、消灯前のメッセージ、薄い味噌汁。小さな日常が積み重なって、ようやくたどり着いた一行です。

これから先、定期検査のたびに、あなたは何度も「巻き込んでいいのか」に戻りかけるかもしれません。それは悪いことではありません。怖いものを怖いと思える感覚は、あなたが自分の人生を真剣に生きている証です。ただ、戻りかけたとき、今夜の食卓のことを思い出してください。完璧な打ち明け話ではなかったこと。和解の感動劇でもなかったこと。ただ、味噌汁が薄かっただけの夜だったこと。

そういう夜を、これから何百回も重ねられる相手がいま、あなたの向かいに座っています。

なお、術後の心身の揺らぎは長く続くものです。一人で抱え込みすぎる前に、主治医や患者会、地域の相談窓口など、専門の方の力もどうか定期的に借りてください。それは弱さではなく、長く続けるための知恵です。

シオン「林檎を剥いた人と剥かれた林檎を食べた人がいま、同じ食卓で味噌汁を飲んでいる。湯気は、いずれ消える。消えたあとに残るのは、薄かったと笑った声の余韻だろうか。それとも、笑い合った夜があったという事実そのものだろうか」

シオン「答えは、これを読んでいるあなたが、自分の食卓でいつか確かめることになるのかもしれない」

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