病気の自分は、相手の人生の「負担」なのか──四人の視点で考える恋愛と闘病

第二章 林檎の皮の、その先で

彼女が出ていった病室で、私はしばらく動けませんでした。

蛍光灯の音が、急に大きく聞こえるんです。隣のベッドのカーテン越しに、向こうの人がテレビを小さな音で見ているのが分かる。ニュースキャスターの声がくぐもって、何を言っているのか分からないのにその「分からなさ」が、自分の今の状態と少し似ている気がして笑いそうになりました。

皿の上の林檎の皮を看護師さんが片付けに来てくれたのは、三十分くらい後だったと思います。「ご家族、もう帰られたんですね」と声をかけられて、私は「はい」とだけ答えました。「家族」と呼んでよかったのか、そうじゃないのか、自分でもよく分からなかった。

その夜、消灯の少し前に彼女からメッセージが届きました。

「言いすぎました。ごめんなさい。でも、部屋を別にしたい理由をちゃんと聞かせてほしいです」

たった、それだけ。

私は、画面を見たまま十分以上、何も返せませんでした。

「ちゃんと聞かせてほしい」という言葉の、本当の意味

アキ「ねえ、これ──彼女、めちゃくちゃ大人だね。『もう会いたくない』って言ってしまった自分を、その日のうちに撤回してきた。しかも、『理由を聞かせて』って。これさ、すごく難しいことなんだよ。本当に怒ってる人って、こうは言えない」

サキ「そうなんですよね。『言いすぎました』って、自分の言葉の温度を自分で測れる人の言い方なんです。たぶん陽子さんも、病室を出てから自分の言葉に自分で驚いたんだと思います。私、子どもに強く言ってしまった夜の感じ、よく分かるんですよ。布団に入ってから、ああ、あの言い方じゃなかったなって思う。それとたぶん近いものです」

ケンゴ「彼女は扉を閉めずに帰った、ということだろう。『理由を聞かせてほしい』というのは、関係を続ける意思の表明だ。問題はここから先、この方が何を、どこまで話すかだ」

アキ「うん。で、ここから先がいちばん大事だと思うんだけど。私はね、いきなり全部話さなくていいと思う。『再発のリスクが』とか『定期検査が一生』とか、そういう話を今夜のメッセージで返したら、彼女たぶん受け止めきれないよ。情報量が多すぎる」

ケンゴ「……それは違うと思うが」

アキ「お、来た」

ケンゴ「茶化さないでくれ。この方が三か月後、半年後にも同じ場所で立ち止まらないためには、いちどちゃんと土台を共有する必要がある。『部屋を別にしたかった本当の理由』を断片的に小出しにしていくほうが、かえって関係を傷める。情報量の問題ではなく、誠実さの問題だ」

アキ「ケンゴさんの言うこと、正しいのは分かるよ。でも──正しさで人が動けるなら、そもそもこの方、こんなに悩んでない。退院前の、まだ自分の体に慣れてもいないタイミングで『一生の話』を一度に渡されるのって、渡される側もしんどいよ。私はまず、今夜は『怖かったんだ』だけでいいと思う。怖かったを一個渡すだけで、関係の温度は変わる」

サキ「お二人のおっしゃっていること、どちらも分かるんですよね。ただ、私が一つだけ気になったのは──陽子さんが聞きたいのは『病気の説明』じゃない気がするんです。『なぜ、私に隠そうとしたの?』のほうじゃないでしょうか」

アキ「……あー」

サキ「毎日面会に来ていた人にとって『部屋を別に』という言葉は、『この先も、あなたには見せない領域がありますよ』という宣言に聞こえたんだと思います。病気の重さよりも、その『線を引かれた』ことのほうが痛かった。ご本人もたぶん、無意識にそうしてしまった」

ケンゴ「……サキさんの整理は、的確だな。私が『誠実さの問題だ』と言ったのも、結局はそこに繋がる」

アキ「うん。私もサキさんに言われてストンと来た。──じゃあ、今夜返すべき言葉は、病気の説明でも決断でもなくて、『線を引いてごめん』なのかもしれない」

「これから一緒に暮らす」を、生活の単位で考えてみる

サキ「あの、もう一つだけ、生活の側からお話ししていいですか。陽子さんが『婚前旅行の部屋を別に』に納得できなかった理由を、もう少しだけ具体に落としてみたいんです」

サキ「結婚するということは、相手の薬の飲み忘れに気づく人になるということなんですよね。朝、ゴミを出しに行く前に、相手の顔色を一秒見る人になる。検査結果の封筒を、台所のテーブルで一緒に開ける人になる。──陽子さんはたぶん、そういう日常の側にもう半分くらい足を踏み入れている人だと思うんです」

サキ「だから温泉旅行の一晩を、『お客さん同士』に戻されることが寂しかった。病気の話を打ち明けてもらえなかったことよりも、たぶん、そっちのほうが」

アキ「うわ、それ、刺さるな。──ねえ、あなた。陽子さんって人、たぶん『健康な恋人』を求めてあなたのところに来たんじゃないよ。林檎を剥く人として来てくれてる」

ケンゴ「『巻き込む』という言葉の重さを、もう一度考える材料になる発言だと思う。あなたが『巻き込んでいいのか』と問うとき、彼女はすでに自分の意思でそこに立っている。彼女を巻き込まれる客体として見ているうちは、関係は対等にはならない」

では、今夜、何を書くか

アキ「具体的な話、しよっか。今夜、メッセージにどう返すか。──私からの提案はシンプル。三つだけ書く」

アキ「一つめ。『言いすぎました、なんて謝らないでください。僕のほうこそ、ごめん』。二つめ。『部屋を別にしたかったのは、術後の自分をまだ自分でうまく扱えていないからでした。あなたに見せたくなかったんじゃなくて、僕がまだ、見せ方を知らなかった』。三つめ。『退院したら温泉の前に、一度だけうちで普通にご飯を食べませんか。話したいことがあります』」

サキ「『うちで普通にご飯』、いいですね。旅行という非日常の前に、日常を一回挟む。それだけでお互いの呼吸が整います」

ケンゴ「悪くない。ただし『話したいことがあります』と書いた以上、その場では再発の可能性も含めて自分が抱えてきた怖さを、言葉にする覚悟が要る。そこから逃げないでほしい」

アキ「うん。逃げないために一回、自分の中でも準備がいるよね。今夜はメッセージだけ返して、ご飯のときに何を話すかは、退院までの数日でゆっくり考えていい」

第二章の核──「打ち明ける」のではなく、「線を引き直す」

あなたが彼女に渡すべきものは、病気の詳細な説明書ではありません。「あなたに見せたくなかったわけじゃない、見せ方が分からなかっただけだ」という、たった一つの訂正です。

彼女は毎日の面会という形で、すでにあなたの闘病の一部に立ち会ってきました。彼女にとってあなたの病気は、「これから打ち明けられる秘密」ではなく、「すでに半分共有している現実」です。そのことをあなた自身がまだ受け止めきれていない。

必要なのは関係を一度ゼロから説明し直すことではなく、「線を引いてしまった自分」を引いた本人として、引き直すことです。

退院後、旅行の前に一度、普通の食事の場を設けてみてください。非日常の温泉ではなく、湯気の立つ味噌汁の前で話すほうが、たぶん本当の言葉が出ます。そのとき、説明よりも先に「怖かった」と一言だけ言えれば、それで充分です。

なお、退院後の心身の調整期間は、想像以上に揺れます。決断を急がず、必要に応じて主治医や地域の患者会・相談窓口に話を聞いてもらうことも、選択肢に入れておいてください。

シオン「皿の上の林檎の皮は、もう片付けられた。けれど彼女が剥いた林檎の味は、まだ残っている。次に二人で食卓を囲むとき、剥かれるのが林檎なのか、別の果物なのかは分からない。ただ、剥く人と剥かれる人が入れ替わってもいい時間が、もう始まっている」

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