【墓じまい・終活】「墓は要らない」と思うあなたへ―石を遺す本当の意味と風の住所

第二章 ― 石に刻めなかった名前

三回忌の帰り道、私は遠回りをした。町外れの、もう誰も掃除に来ていないらしい古い墓地の前を通る。倒れかけた石塔がいくつもあって、苔に埋もれて名前も読めない。あれもかつては、誰かが泣きながら建てたものだったはずだ。それが今は、名前を呼ぶ者もいない。私はそこで足を止めて、妙なことを考えた。名前が読めなくなった墓は、失敗した墓なのだろうか。それともあれこそが、本来の「還り方」なのだろうか。父の墓の白い御影石がやけに新しく、よそよそしく思えてきた。

よりみちナビゲーターの対話

シオン:あなたが立ち止まったその墓地の光景、私にはとても大切なものに思えます。名前が消えた墓を「失敗」と見るか、「完成」と見るか。そこにあなたの死生観の芯があるのかもしれません。

サキ:私はやっぱり、少し切ないと感じてしまうんですよね。名前が読めなくなるって、その人が「二度目に死ぬ」ような気がして。一度目は体が死ぬとき、二度目は覚えている人が誰もいなくなるとき。お墓って、その二度目をなるべく先に延ばすための、細い糸のようなものなのかなと。

ケンゴ:サキの「二度目の死」という言い方は的確だと思う。ただ、私はその糸を、いつまでも張り続けることの負担も見ておきたい。今の日本では、墓の管理費は年間数千円から数万円、永代供養にすればまとまった額がかかる。継ぐ者がいなければ、いずれ無縁墓として整理される。あなたが見た苔の墓は失敗ではなく、糸が自然に切れた結果だ。そして糸を切る決断を「墓じまい」という形で、生前に自分でできる時代でもある。

サキ:ケンゴさんの現実的なお話、必要なことだと思います。ただ――糸を切る側の人間の気持ちも、忘れないでほしくて。私、祖母の実家の墓じまいに立ち会ったことがあるんです。石を抜いて更地にする、その瞬間に、叔母が声を上げて泣いたんですよね。手続きとしては正しい。でも、正しさだけでは片付かないものが確かにそこにあって。

ケンゴ:……それは私も否定できない。数字で割り切れると言いたかったわけではない。ただ、割り切れないまま先送りにされた重荷が、次の世代を縛ることもある。それだけは、伝えておきたかった。

シオン:(静かに)二人とも、糸の話をしている。張るか、切るか。けれど――(間)あなたが今日、名も知らぬ誰かの墓の前で立ち止まった。それ自体がもう一本の、細い糸ではないだろうか。名前は消えても通りすがりの人がふと足を止めて、誰かの生を想う。墓とはそういう「見知らぬ者への置き手紙」でもあるのかもしれない。あなたは無宗教だと言われた。けれど今日、あなたは誰かのために、確かに手を止めた。

自分に問いかけるロードマップ

あなたが「墓は要らない」と願うとき、それは「忘れられてもいい」という願いなのか、それとも「誰も縛りたくない」という優しさなのか。この二つは、似ているようで違います。

父母や祖父母の墓を、あなたはいつか「じまい」するかもしれません。そのとき、あなたは何を手放し、何を残したいのか。石を残すのか、記憶を残すのか、あるいはその両方を静かに手放すのか。

名前の消えた墓を「還り方」として肯定できるなら、あなた自身もいつかそうやって還っていくことを、少しだけ怖くなくなるのではないでしょうか。

本日の羅針盤

サキの言う、「二度目の死」を先延ばしにする糸としての墓。
ケンゴの言う、負担にも重荷にもなりうる現実としての墓。
そしてシオンの言う、見知らぬ者への置き手紙としての墓。
三つの視座はどれも正しく、どれも完結していません。

あなたが名も知らぬ墓の前で足を止めたこと――その行為の中に、答えのかけらがある気がします。あなたは石を否定しながら、石の前で立ち止まった。人の死を「自然に還るだけ」と言いながら、還っていった誰かを想った。無宗教であることと死者を悼むことは、矛盾しません。

墓を持つか持たないかは、いずれあなたが選びます。急いで結論を出す必要はありません。ただ、既存の墓の管理や墓じまいには具体的な手続きと費用が伴います。菩提寺・自治体・行政書士や終活相談の窓口に事実関係だけでも確認しておくと、心の重さが少し軽くなるかもしれません。

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