第三章 ―― 辞書はひとりで作らなくていい、という発見
辞書を作りはじめて、少しずつ思うことが変わってきました。これまで私は「ずれているのは私だけ」「直すのも私ひとりの仕事」だと、勝手に思い込んでいたんです。
でもこの前、勇気を出して同僚に言ってみました。「私、冗談を真に受けちゃうことが多いので、本気のときは『これ本当だよ』って教えてもらえると助かります」って。そうしたらその人笑いながら、「了解、グラタンの人」って。あだ名がついてしまいました。でも、嫌な気持ちはしませんでした。むしろちょっと仲間に入れてもらえた気がしたんです。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:「グラタンの人」、最高のあだ名じゃん。それってさ、もう笑われてるんじゃなくて一緒に笑ってるってことだよ。位置が変わったんだよ、彼女。輪の外から見られる側じゃなくて、輪の中で名前を呼ばれる側に。
ケンゴ:それは大きな前進だ。さっきの彼女の一言――「本気のときは教えてください」――あれは見事だった。自分の取扱説明書を、相手にきちんと手渡したわけだ。職場で言えば、業務の前提条件を共有したようなもの。ミスが起きてからではなく、起きる前に伝えた。これは立派な仕事術だよ。
アキ:ケンゴさん、すぐ仕事にたとえるなあ。でも、たしかに。「察してほしい」じゃなくて「言葉で頼む」に切り替えたんだよね。それって空気を読むのが苦手な人ほど、強い武器になると思う。
ケンゴ:その通りだ。空気を読む能力には個人差がある。だが「お願いする」のは、誰でも練習できる技術だ。彼女は苦手な土俵を降りて、得意な土俵で勝負を始めた。賢い。
シオン:聞いていて面白いと思った。彼女は「直そう」として始めたはずだった。けれどたどり着いたのは「変えてもらう」でも「変わる」でもなく、「打ち明ける」だった。自分のずれを隠そうとするのをやめて、差し出した。隠していたものを差し出した瞬間、それは弱点ではなくなり、関係をつなぐ取っ手になった。世界は矯正よりも、開示によって優しくなるのかもしれない。
アキ:シオンさん、今日はちゃぶ台返ししないんだ。
シオン:今日は誰の言葉もひっくり返す必要がなかった。彼女自身がもう答えのそばまで歩いている。
自分に問いかけるロードマップ
- 「察してほしい」と思っている場面を一つ、「言葉で頼む」に書き換えてみるとしたらどんな一文になる?
- あなたの「ずれ」を笑い飛ばしてくれそうな人は、まわりに誰かいる? その人になら打ち明けられそう?
- 「グラタンの人」と呼ばれたあなたは、それを弱点だと感じた? それともちょっと嬉しかった? その気持ちの理由は何だろう。
本日の羅針盤
アキは「輪の外から、輪の中へ位置が変わった」と言い、ケンゴは「察してもらうより、言葉で頼むという技術を選んだ賢さ」を讃えました。そしてシオンはその変化の正体を、「矯正」ではなく「開示」だと言い当てました。
第一章で、あなたは「天然を直したい」と書きました。けれど三章を歩いてみて、見えてきたのは少し違う景色です。あなたは直す必要などなかった。ただ、隠すのをやめればよかっただけ。
「私、冗談を真に受けちゃうんです」と先に言ってしまえば、それはもう失敗ではなく、あなたという人の愛すべき個性として相手の手に渡ります。「グラタンの人」というあだ名がその証拠です。笑われた言葉が、呼ばれる名前に変わったのですから。
斜め45度のあなたへ。その角度は矯正するものではありませんでした。打ち明けて、共有して、一緒に笑うものでした。辞書はもう、あなたひとりのものではありません。「グラタンの人」と呼んでくれる、共同編集者たちのものです。
もしこの先、開示してもなお息苦しさが残るときは、どうか軽い気持ちで誰かを頼ってください。あなたが今回、同僚に一言を差し出せたように。差し出す相手は友人でも、家族でも、専門の窓口でも構いません。あなたはもう、その一言の出し方を知っています。
――本日のよりみち、ここまで。グラタンの店が見つかったら、ぜひ教えてください。今度はみんなで笑いながら食べに行きましょう。



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