トラウマ克服ではなく「出どころを言い当てる」。言葉を取り戻す心理学ロードマップ

エピローグ 二月の乾燥機の前で、あなたは足を止めた

これと同じ痛みを、私はどこで感じていたか

二月の朝でした。搬入が遅れて、フロア全体が急いていました。仕上げの棚の前で、班長が私のやり方を大きな声で否定しました。フロアには六人いました。誰もこちらを見ません。見ないというのは、そういうことです。手が止まりました。耳の奥が詰まって、乾燥機の音が遠くなりました。

胸から喉に、いつもの冷たいものが上がってきました。もう分かっています。ここから先は頭が白くなって、謝って、家に帰って夜中まで自分を責める。去年までは、それが最短経路でした。

でもその朝は、なぜか一拍だけ間が生まれました。ノートの記録を三か月、続けていたからかもしれません。私は自分に問いました。

「これと同じ痛みを、私は子どもの頃どこで感じていただろう」

出てきたのは、六歳の台所です。夕方、家族四人で食卓を囲んでいて、私が何か口にしました。何を言ったかは覚えていません。ただ、誰も顔を上げませんでした。皆こちらを見ず、返事もなかったことだけをはっきり覚えています。記憶を呼び覚まされたのは、その場面だけです。

でも、耳の詰まりは抜けました。乾燥機の音が戻ってきます。私は気づきました。いま痛いのは班長の言葉ではなく、あの台所だ。

私は謝りませんでした。代わりに、皆さんからアドバイスされた問い方をしました。「もう一度だけ確認させてください。この順で合っていますか」。班長は「ああ、それでいい」と言って、次の棚に移動します。それだけです。怒っていたのかどうかは、聞きませんでした。聞かなくてよかったのだと思います。

休憩室で、ノートに書きます。予測では「今日は誰とも口をきかない」。夕方の結果は「パートの人に、寒いねと言われた」。挨拶を返したので外れです。数えると三か月だけで、外れが二十六件ありました。

帰りに用水路を通りました。銀杏は裸でしたが、根元に丸い芽のようなものがついています。去年の秋は、同じ道で同じことを考えていました。今年は少し、違うことを考えています。

よりみちナビゲーターの対話

シオン: ……あなたは逃げなかった。戦いもしなかった。痛みの発生源を言い当てたのだ。四十八年、あの時の台所は名前を持たないまま、職場や道端や布団の中に現れ続けた。名前のないものからは逃げられない。名前がついたものなら、そこに留まる。あの朝あなたは初めて、台所を台所の場所に置いた。

アキ: 私、この報告を読んで少し泣いた。スゴイのは、六歳の記憶が出てきたのに崩れなかったところだよ。前は思い出すこと自体が危なかったはずなのに、思い出して、しかもそれで楽になってる。順番が逆転してるんだよね。

ケンゴ: 私は数字の側から評価したい。予測ノート、外れ二十六件。これは体感ではなく記録だ。「今日は誰とも口をきかない」という見積もりが、三か月で二十六回崩れた。この方はもう、自分の悲観が高く見積もられすぎていることを紙で知っている。知識ではなく、所有だ。だから二月の朝、一拍の間が生まれた。その一拍は偶然ではない。九十日分の記録が作った時間だと私は思う。

アキ: ケンゴさんの言うこと、わかるよ。ただ、それだけだと惜しい気がする。あの朝いちばん効いたのは記録じゃなくて、問いの向きだと思う。「なんで私はこんなに弱いんだ」じゃなくて「この痛みはどこが由来か」に変わってる。自分を裁く問いから、探す問いに変わった。そこが本当の分岐点だよ。

ケンゴ: アキの指摘は正しい。認める。記録は、問いを立てる余裕を作っただけだ。踏み出したのはご本人だ。

サキ: 私が一番いいと思ったのは、謝らなかったところではありません。「怒っていたのかどうかは聞かなかった」と書かれているところです。確かめなくてよいものを、確かめずに置いて帰れた。それができる人は、もう自分の内側に居場所を持っています。……それに、休憩室でノートを開いたんですよね。あの短い休憩の中で。生活の中に入った習慣は、もう崩れませんよ。

シオン: 銀杏の根元の芽のことを書いておられた。……それはあなたが今年、見上げずに足元を見たという記録だ。去年の秋、あなたは葉の落ちる方を見ていた。今年は根を見た。同じ道で、視線の高さが変わったのだ。

六歳のあなたは、まだ台所にいる。連れ出すのに何年かかるか、私には分からない。ただ、あの朝あなたは初めてあの子に顔を向けた。四十八年ぶりに、こちらを見た人間が一人だけいる。それはあなただった。

自分に問いかけるロードマップ

  • あの朝、耳の詰まりが抜けた瞬間、身体はどこから緩んだか。
  • 「これと同じ痛みを、どこで感じていたか」。この問いは、今後どんな場面で使えそうか。
  • 外れ二十六件を、あなたはどう解釈するか。読みが甘いのか、それとも自分を低く見積もりすぎていたのか。
  • 六歳のあなたを、今年、どこへ連れて行きたいか。

本日の羅針盤

過去は克服する相手ではない。 出どころを言い当てられたとき、過去は現在から手を離す。

  • ケンゴ: 一拍の間は九十日の記録が作った。続ければ間は伸びる。継続してよい。
  • サキ: 休憩室でノートを開けたなら、それはもう生活です。うまくいかない週が来ても、記録を捨てないでください。
  • アキ: 問いの向きが変わった。自分を裁く問いから、探す問いへ。これは一生使える。
  • シオン: 癒しとは、静かに終わるものだ。誰も気づかない二月の朝、乾燥機の前での出来事のように。

なお、幼少期の記憶に触れる作業は、強い落ち込みや不眠を伴うことがあります。今回のように落ち着いて戻れたとしても、揺れが長引く場合は、各都道府県・指定都市の精神保健福祉センター(相談無料)や、精神科・心療内科など専門機関への相談もご検討ください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました