第一章 「元気だね」と言われるたび、少しだけ息が浅くなる
朝四時五十分に目が覚める。アラームより先に体が起きるようになったのは、たぶん去年の秋くらいから。名古屋の外れにある学校給食のセンターで働いて、三年目になります。二十四歳です。
更衣室で白衣に着替えて、髪をネットで押し込んで、マスクをつける。そこまでの三分間だけ、私は無表情でいられる。厨房の扉を開けた瞬間から、私は「明るいアヤカちゃん」になります。八十リットルの回転釜から上がる蒸気、次亜塩素酸の匂い、床に落ちた水を弾く長靴の音。
誰かが「おはよう」と言えば、私は誰よりも大きい声で返す。パートさんが二人続けて辞めて、人が足りない現場で、誰かが暗い顔をしていたらその日の空気が全部沈むと知っているから。私は管理栄養士の試験に、二回落ちています。専門を出たあと働きながら受け続けて、二回。
三月の発表の日、駐車場の軽自動車の中でスマホを見て、それからいつもどおり出勤しました。参考書は助手席の下に入れたまま、たしか半年触っていません。給食の献立を組む人になりたい、というより自分の手で、「これを食べさせたい」と決められる場所に立ちたかった。その気持ちは、まだ消えてくれない。消えてくれたら楽なのに。職場の先輩は言います。「アヤカちゃんは要領いいし、なんとかなるよ」。母も電話で言います。「あんたはいつも元気だから安心してる」。そのたびに、喉の奥が少し狭くなる。私はいま、そんなに大丈夫な人間じゃない。でも「大丈夫じゃない」と言う言い方を、私は一度も練習してこなかった。
諦めそうな自分と諦めたくない自分が、同じ胸の中で押し合っている。この苦しさをどう置き直したら、私は一人でも歩けるようになりますか。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:アヤカさん、まずお伝えしたいことがあるんです。更衣室の三分間、無表情でいられる時間をご自分で確保していらっしゃいますよね。それ、無意識のようでいて、ものすごく上手な休み方ですよ。あの三分がなかったら、たぶん今のペースは持たなかった。だから「私はうまくSOSを出せていない」と責める前に、あなたはもう自分を延命させる技術を持っている、というところから始めたいんです。
アキ:うん、それに「いつも元気」って言われるのがしんどいの、私すごくわかるよ。私も前の職場で「アキちゃんがいると場が明るくなる」って言われてて、あれ褒め言葉の形をした当番表なんだよね。
明るい担当、はい、あなた。一回引き受けたら降板できない。しかもね、その役をちゃんとやれてる人ほど、周りは「この人は元気の在庫が無限にある」って本気で信じちゃう。SOSが伝わってないんじゃなくて、SOSを受け取る枠が最初から用意されてないんだと思う。
サキ:そうですね。伝え方の失敗ではないんですよね。
ケンゴ:私は少し違う角度から言わせてもらう。アキの言うことは分かる。役割が固定される現象は、組織では日常的に起きる。ただ、アヤカさんの状況は「気持ちが伝わらない」問題だけで終わらせるべきではないと思う。
事実として、パートが二人抜けた現場に人員補充がなく、三年目の若手が空気の管理まで背負っている。これは個人の性格の話ではなく、人員配置の欠陥だ。参考書に半年触れられない理由も、根性ではなく時間の総量にある。
朝四時五十分に起きる生活で、可処分の勉強時間が一日何十分残るのか。そこを数えないまま「気持ちの整理」に向かうと、来年の三月、また駐車場に座ることになる。
アキ:ケンゴさんの言い方、正しいのはわかる。でも今日のアヤカさんに一番必要なのってそれかな。喉の奥が狭くなる、って書いてるんだよ。まず「私、しんどい」って自分に言えるようになるのが先じゃない。構造の話って、正しいぶんだけ「動けない私が悪い」に化けやすいから。
ケンゴ:その懸念は受け取る。私も、自分を責める材料を増やしたいわけではない。ただ、感情の整理だけで済ませた三年目は、四年目と同じ場所にいる。それを私は何人も見てきた。優しさが結果的に人を足止めすることがある、という話だ。
サキ:お二人の言うことは、どちらも本当だと思います。ただ、私はもう少し手前に線を引きたいんです。ケンゴさんの言う「時間の総量を数える」って、体力が残っている人の作業なんですよね。
私も下の子が二歳のころ、家計簿と自分の稼働時間を全部Excelに入れて、その表を見て泣いたことがあります。数字が正しいほど、逃げ道がないことがはっきりしてしまって。
だから順番として、アヤカさんにはまず明日の朝が回るかどうかだけを守っていただきたい。長靴を履けるか、朝ごはんを食べたか、その程度の粒で。
ケンゴ:……その順番は、否定しない。
アキ:あ、いま珍しく揉めてる感じあったから、いちおう戻すね。アヤカさん、置いてってないよ。あなたの話をしてる。
シオン:ひとつ、気になったことがある。あなたは「消えてくれたら楽なのに」と書いた。諦めたくない気持ちを、荷物のように扱っている。
けれど三月の駐車場から、あなたはその日ちゃんと出勤した。参考書を捨てもせず、助手席の下に置いた。捨てなかったのは意志だろうか。それともまだ、何かがあなたの中で息をしているだけかもしれない。板挟みという言葉は、二つの力が均衡しているという意味でもある。均衡は弱さの証ではない。
自分に問いかけるロードマップ
- 「元気だね」と言われた直後、体のどこが最初に反応しますか。喉、肩、それとも呼吸の浅さでしょうか。場所を特定できると、それは気分ではなく信号になります。
- あなたが「大丈夫じゃない」と言えなかった相手を三人挙げるとしたら誰ですか。その三人は、あなたに何を期待しているとあなたは思っていますか。
- 参考書を捨てなかった日、あなたは何を考えていましたか。思い出せないなら、それでも構いません。捨てなかったという行為だけが残っています。
本日の羅針盤
SOSが届かないのは、あなたの発信技術の問題ではありません。「明るい人」という役を長く務めた人は、周囲の受信機のほうを作り変えてしまう。まずここを、自分の落ち度から外してください。
そのうえで、本日は答えを一本にしません。アキは「まず自分の疲れを認めること」を、ケンゴは「時間と人員という構造を数えること」を差し出しました。サキが引いた線は、その手前です。明日の朝、長靴を履けるかどうか。その一点だけを、本日の合格基準にしてよいと考えます。
なお、朝アラームより先に目が覚める状態が数か月続いているのは、体の側からの信号でもあります。眠りや食欲の変化が長引く場合は、産業医や地域の相談窓口、心療内科など専門機関への相談もご検討ください。役を降りる交渉を、一人で全部やらなくて構いません。





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