第三章 板挟みの真ん中に、立ったままでいる
よりみちナビゲーターの対話
アキ:最後だから、正直なこと言ってもいい? 私さ、二十四のとき、たぶんアヤカさんと同じ場所に立ってた。副業のフォロワー数が伸びなくて、でも会社辞める勇気もなくて、毎晩ベッドで天井見ながら「私はどっちなんだろう」って考えてた。
あのころ一番きつかったのは、失敗そのものじゃなかったんだよね。自分がどっちの人間なのか決まらないことが、きつかった。諦めた人になれば楽になれる。全部賭ける人になれても楽になれる。どっちにもなれないまま毎朝起きるのが、一番体力を食った。
サキ:アキさん、それ、すごく大事なことを言われましたね。
アキ:うん。で、いま思うのはさ。あの時期の私は決まってなかったんじゃなくて、両方持ったまま立ってたんだよ。両手が塞がってるから、何も掴めてないように見えるだけで。実際は二つとも落とさず、三年運んだ。あれ、けっこうすごいことだったと思う。
ケンゴ:私もその見方に賛成する。私の周りで長く走り続けた人間は、迷いのない人ではなかった。迷いを抱えながら、手続きだけ進めた人だ。
願書を出す、面談を申し込む、資料を取り寄せる。気持ちが決まるのを待たずに、事務作業だけ動かす。アヤカさん、これは冷たい助言に聞こえるかもしれないが、意思よりも手続きのほうが先に動くことは珍しくない。手続きが先に進んで、気持ちが後から追いつく。順番が逆でも構わない。
サキ:ええ。そしてアヤカさんに、私からひとつだけ。前の章で「参考書をどこへ移せるか」という問いを出しました。あれは片付けの話ではないんです。あなたはこの三年、参考書を「毎日自分を裁く道具」として持ち歩いてきた。
同じ本を、置き場所を変えるだけで「いつか戻る場所の目印」にできます。物の意味は、扱い方で変わるんですよ。台所でも同じです。同じ包丁が、疲れている日には重い鉄の塊で、元気な日には手の延長になる。道具は変わっていない。持つ側の状態が変わっている。
アキ:……それ、ちょっと泣きそうになるな。
サキ:それからね、アヤカさん。「なんとかなるよ」と言った先輩や、「あんたはいつも元気だから」と言ったお母さんを、どうか敵にしないでいただきたいんです。言葉は雑ですけれど、たぶん祈りでもあるんですよね。この子には大丈夫でいてほしいという。届かなかったのは事実です。でも、あなたが「実はしんどい」と一度だけ言ったとき、その人たちが本気で慌てる可能性も、私はまだ捨てていません。
シオン:アヤカさん。あなたは最初にこう書いた。この苦しさをどう整理したら、一人でも歩けるようになりますか、と。私はその「整理」という言葉を、少し疑っている。
整理とは、片方を捨てて棚を空けることだ。けれどあなたの胸の中で押し合っている二つは、荷物ではない。挫折しそうだと感じる力は、あなたの体があなたを守ろうとしている声だ。諦めたくないと願う力は、あなたがまだ何かを食べさせたいと思っている証だ。どちらかを棚から下ろせば、あなたは軽くなる。同時に、片方の目が見えなくなる。
板挟みという言葉には、挟まれて動けない苦しさがある。だが、二つの力が同じ強さで押し合っているとき、その中心にいる人は倒れない。均衡とは、そういう状態のことではないだろうか。
あなたは三月の駐車場で、泣いて、それから出勤した。参考書を捨てず、助手席の下に置いた。それは決断の放棄だったのだろうか。それともまだ、どちらも失いたくないという極めて誠実な保留だったのかもしれない。
一人で歩けるようになりますかと、あなたは訊いた。すでに三年、あなたは一人で歩いている。ただ、誰にも見られずに歩いていた。それだけのことだ。
自分に問いかけるロードマップ
- 「決められない自分」を責めてきた時間を、「二つとも落とさずに運んできた時間」と数え直したら、あなたの三年は何点になりますか。
- 気持ちが決まるのを待たずに動かせる事務作業が、ひとつだけあるとしたら何ですか。願書の取り寄せでも、シフト希望の相談でも、求人サイトを開くだけでも構いません。
- あなたが「実はしんどい」と一度だけ言うなら、誰に言いますか。慌ててくれそうな人と慌てなさそうな人を、分けて考えてみてください。
- 一年後の三月、あなたはどんな場所で結果を見ていたいですか。合否ではなく、場所を思い描いてください。駐車場の軽自動車の中でなければ、それは前進です。
本日の羅針盤
三章を通して、私たちは答えを一本にしませんでした。最後に四つの視座を、そのまま置いて終わります。
アキから:どっちの人間か決まらない時期は、決断力の欠如ではない。両方を落とさずに運んでいる時期である。
ケンゴから:意思より、手続きを先に動かしてよい。ただし回復期間には終わりの日付を入れる。環境は、耐えられる人に仕事を寄せる力学で動いている。
サキから:SOSは、言葉より先に生活へ漏れている。まず明日の朝、長靴を履けるかどうかを合格基準にする。同じ道具の意味は、置き方と持ち方で変わる。そして「なんとかなるよ」と言った人を、敵にしなくてよい。
シオンから:整理とは片方を捨てることだ。あなたの二つは、捨てるべき荷物ではない。均衡の中心にいる人は倒れない。
アヤカさん。あなたのSOSは届かなかったのではなく、まだ誰にも読まれていなかった。読まれた瞬間に、それは弱さではなく情報になります。




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