「私、限界です」が言えない理由。職場で抱え込みがちな人が心を軽くする言葉のロードマップ

第二章 SOSは言葉ではなく、生活の隙間から漏れている

よりみちナビゲーターの対話

サキ:アヤカさん、第一章のあと、少し思い出したことがあるんです。私が一番しんどかった時期、人に「しんどい」と言えなかったのは勇気がなかったからじゃない。言ったあとの相手の顔を、先に想像してしまったからでした。
困った顔をされるのが嫌だった。「じゃあ休めば」と言われて、休めない理由を説明する体力がもうなかった。だから黙るほうが、省エネだったんです。あなたもそうではありませんか。

アキ:それ、めちゃくちゃある。SOSって、出してからの後処理が地獄なんだよね。心配された分だけ「ごめんね」を配らないといけない気がして。私、前に一回だけ職場で泣いたことあるんだけど。そのあと一週間、みんなに「大丈夫だよ、あれはただ寝不足で」って営業して回った。あの一週間のほうが、泣いた日よりしんどかった。

サキ:ええ。だから私はアヤカさんに、「言葉で伝える練習」をすぐお勧めしたくないんです。かわりに見ていただきたいのは、生活のほうです。
あなたのSOSは、もう漏れているはずなんですよ。参考書が助手席の下にあるという一点でも。あれは机に置けなかった、ということですよね。目に入る場所に置いておけないほど、その本はあなたを責める存在になっている。

ケンゴ:そこは私も同意する。物の置き場所は、心理の記録として案外正確だ。ただ、そのうえで私は数字の話に戻る。アヤカさん、一週間だけ可処分時間を実測してもらいたい。四時五十分起床、出勤、勤務、帰宅、就寝までのあいだで、あなたが自分の意思で使える時間が何分あるか。予想ではなく、実測だ。私の経験ではこの種の実測をすると、たいてい二つのうちどちらかが判明する。

アキ:どっち?

ケンゴ:一つは、時間はあるが体力が尽きているケース。この場合、問題は勉強時間の確保ではなく、回復の設計になる。
もう一つは、そもそも物理的に時間が存在しないケース。この場合、努力の量を増やす方向は全部間違いになる。異動を願い出るか、雇用形態を変えるか、勤務先自体を替えるか。──五年後から逆算すれば、二十四歳の一年をどう使うかはかなり重い分岐点だ。

サキ:ケンゴさんのおっしゃることは、たしかに筋が通っています。ただ──ひとつ申し上げてよいですか。「五年後から逆算」は、明日の朝が確実に来る人の考え方なんですよね。アヤカさんは今、朝を一日ずつ手で運んでいる状態です。人が二人抜けた現場で、その日の空気まで背負って。そういう時期に五年後の地図を広げると、地図の広さそのものが重量になります。私、そこで一度潰れました。逆算が悪いのではなく、逆算に耐えられる足腰が戻ってからにしていただきたいんです。

ケンゴ:……サキさんの指摘は、私の盲点だ。認める。ただ一点だけ譲れないことがある。「足腰が戻るまで」を無期限にすると、環境の側は何も変わらない。人手不足の現場は、耐えられる人間に仕事を寄せる。それは悪意ではなく、力学だ。だから期限を切りたい。二か月でも三か月でもいい。回復に専念する期間を決めて、その終わりに一度だけ構造の話をする。それならどうだろう。

サキ:……ええ。それなら私は反対しません。期限を切るというのは追い立てるためではなく、途中で自分を裁かないためですね。

アキ:あ、それいいな。「今は回復期間なので構造の話はしません」って自分に宣言しちゃうやつ。宣言しとかないと、休んでる最中にずっと「本当は今動くべきなのに」って声が鳴り続けるんだよね。あれが一番体力を食う。

シオン:話を、ご本人のほうへ戻したい。アヤカさん。あなたは「私はいま、そんなに大丈夫な人間じゃない」と書いた。私はこの文の「いま」に目が留まった。
あなたは自分を、恒久的に弱い人間だと言っていない。時期の話をしている。挫折しそうな自分と諦めたくない自分、その「二人がいるとあなたは思っている。けれど、諦めたくないと願うのも、もう無理だと感じるのも、同じ一人の人間の体が出している声かもしれない。二人だと思っているから、板挟みになる。一人が、二種類の呼吸をしているだけだとしたらどうだろうか。

自分に問いかけるロードマップ

  • この一週間、あなたが自分の意思で使えた時間は、実際に何分でしたか。多い日と少ない日の差はどこから生まれましたか。
  • 参考書を助手席の下からどこへ移すなら耐えられますか。玄関、車のトランク、実家、あるいは一度だけ本棚の一番下。移動先を選ぶ作業は、捨てるか続けるかの二択よりはるかに現実的です。
  • 「SOSを出したあとの後処理」で、あなたが一番恐れているのは誰の顔ですか。その人はあなたの弱さを見たら、本当に離れていく人でしょうか。
  • 回復に専念する期間を決めるとしたら、いつからいつまでにしますか。終わりの日付を、あなた自身が決められます。

本日の羅針盤

SOSは、言葉で発信されるものだと思われがちですが、実際にはもっと早く、生活の隙間から漏れています。触れない参考書、先に目が覚める朝、更衣室の三分。あなたはすでに信号を出していて、ただ受信できる人が周りにいなかった。それだけです。

本章ではサキとケンゴのあいだに、一つの合意が生まれました。今は回復を優先する。ただし無期限にはせず、終わりの日付を自分で決める。ここが本日の実務的な地面です。

心身の不調が長く続くとき、回復の期限設定を一人で判断するのは難しくなります。眠れない、食べられない、休日も動けないといった状態が二週間以上続く場合は、専門機関への相談もご検討ください。

コメント

タイトルとURLをコピーしました