エピローグ:値札を貼ったのは、誰か
追伸
先週の水曜日でした。伝票の判子をもらいに社長室へ行って、事務的な話が終わって私が引き戸に手をかけたときです。社長が机の上の湯呑みを持ち上げたまま、こちらを見ずに言いました。
定年は六十だけどな、あんたの代わりはいないからなぁ。ウチの規模じゃ後継者育成って言ったって若い奴は来ないし、隅から隅までわかってるのあんた一人だからなぁ。頼むから、定年で辞めますなんて言わないでくれよ。
私は「はい」と言ったのか、笑ったのか、覚えていません。引き戸を閉めて、廊下の突き当たりの窓から製品置き場が見えて、積み上げた板が雨に濡れないようにシートがかけてあって、その青いシートを見たまま、たぶん十秒くらい立っていました。木の粉の匂いがいつもより、奥まで入ってきた気がしました。
その日の帰り、スーパーに寄りました。惣菜の棚に鶏のから揚げが並んでいて、まだ半額のシールは貼られていませんでした。いつもなら店内をひと回りして、貼られるのを待つ時間です。
私はそれを、そのままかごに入れました。三百九十八円でした。
レジを通して袋に入れて、車の助手席に置いて家に着いて、皿に移して食べました。
おいしかったです。それは半額で買ったときと、たぶん同じ味だと思います。ただ、なぜかあのから揚げが半額でなくなった気がしたんです。値段が変わったわけではありません。半額かどうかで測るものではなくなった、というほうが近いのかもしれません。嬉しかったのだと思います。でも、家の中が静かになってから、少しだけ怖くなりました。この嬉しさは、私が自分で見つけたものではないなと気づいたからです。
よりみちナビゲーターの対話
アキ: 私、まずここを言わせてほしい。あなた、待たなかったんだね。棚の前でシールが貼られるのを。
十九年、値札に自分を合わせてきた人が、その日だけ順番を入れ替えた。三百九十八円をそのままかごに入れた。それって決意とか改心じゃなくて、体が勝手にやったことだと思う。頭で決める前に手が動いたなら、それはもうあなたの中に用意があったってことだよ。私はそこを、まず祝いたい。
ケンゴ: 私も一皿は肯定する。そこは争わない。だが私は、社長の言葉そのものについて、別の角度から申し上げたい。
あの言葉は、二つのものが一枚に重なっている。ひとつは、間違いなく評価だ。十九年、隅から隅まで一人で回してきた事実を、経営者が把握しているという証拠だ。それは受け取っていい。
もうひとつある。「あんたの代わりはいない」という状態は、褒め言葉である前に経営課題の未処理だ。事務が一人しかいない、後継者がいない、若い人が来ない。これは全部あなたの功績ではなく、会社側が十九年間手をつけなかった宿題だ。その宿題を、社長は湯呑みを持ち上げながら引き戸の前のあなたに預けた。頼むから辞めると言わないでくれ、と。
私が気になるのは、その言葉のあとに何もなかったことだ。六十歳以降の雇用形態の話、賃金の話、勤務日数の話。ひとつも出ていない。出ていないまま辞めないでくれという約束だけが、あなたの側に置かれた。
アキ: ……それはわかる。わかるんだけど、ケンゴさんの言うことも一理あると思ったうえで、ちょっと待ってほしい。
この人、あの言葉で初めて自分に定価をつけられたんだよ。十九年ぶりに、から揚げをシール待ちしないで買えたんだよ。そこに「それは会社の未処理課題です」って構造の話を先に置くと、せっかく動いた手がまた止まる気がする。せめて一皿ぶんは、嬉しさを嬉しさのまま置いておきたい。
ケンゴ: アキの心配は正しい。私もあの一皿を勘定に入れずに構造の話をするつもりはない。だから順番を分けて言う。
嬉しさは本物だ。それは残しておいてほしい。ただし嬉しさと六十歳以降の労働条件は、別の帳簿に書くべきものだ。同じ帳簿に書くと、嬉しさが条件の代わりに使われる。私は管理職として、そういう場面を何度も見てきた。「君しかいない」と言われた人間が、その一言を給料の代わりに受け取って五年後に体を壊す。悪意のある会社だけで起きることではない。むしろ、社長も本気であなたを頼っているからこそ、条件の話が後回しになる。善意だから危ない。
だから私が勧めるのは、断ることではない。受けるなら、条件を紙にすることだ。次に社長室へ行く機会に、たとえばこう言えばいい。「私は六十で辞める気はありません。ただ六十のあと、どういう形で働くのかを一度決めておきたいです」。これは要求ではなく、業務連絡の顔でできる話だ。
サキ: ケンゴさんのおっしゃること、私もそのとおりだと思います。そのうえで、この方が最後に書いていらっしゃった「怖くなった」のほうを、私は拾いたいんです。
この嬉しさは自分で見つけたものではない、と書かれました。あれはご自分をとても正確に見ておられます。から揚げの値札を「半額でなくてもいい」に書き換えたのは、社長さんの一言でしたよね。つまり値札を握っている人が、スーパーから社長室に移っただけかもしれないんです。
私が心配なのは、そのあとです。もし来年、社長さんが代わったら。あるいは体調を崩されて、あなたに何も言わなくなったら。そのとき、から揚げはまた半額を待つ食べ物に戻ってしまいます。誰かに必要とされている実感は、たしかに人を奮い立たせます。ただ、その実感を土台の全部にすると、土台は他人の口の中にあることになってしまうんですよね。
ケンゴ: ……サキさんの指摘は、私の話より一段深い。認めよう。私は「条件を紙にせよ」と言ったが、それは会社との関係の整備までしか届いていない。値札を誰が持つかという問題は、そこでは解けない。
サキ: 解けないままでいいと思うんです、いまは。ただ、ひとつだけ確かめてみてほしいことがあります。次にから揚げの棚の前に立ったとき、社長さんの言葉を思い出さないで、それでも定価のままかごに入れられるかどうか。
入れられたら、それは値札があなたの手に移った証拠です。入れられなかったらまだ移っていないだけで、悪いことではありません。今回はきっかけを他人からもらった、それだけのことですから。きっかけは誰からもらってもいいんですよ。
アキ: あ、それはいいな。私、その確かめ方は好きだよ。しかも一回で決めなくていいところがいい。
シオン: 三人の話を聞いていた。私は社長の言葉のうち、まだ誰も触れていない部分について話す。
彼は「あんたの代わりはいない」と言った。あの言葉は能力の評価としては危ういものだ。ケンゴが言うとおり、経営の未処理でもある。だが、言葉の意味を離れて、起きたことだけを見てみたい。
彼はあなたを見ていなかった。湯呑みを持ち上げたまま、こちらを見ずに言った。人が誰かを見ずに口にすることは、多くの場合、準備していない言葉だ。彼はあの瞬間、あなたが辞めたあとの朝を想像したのだろう。誰も給油していないストーブ。冷えたままの事務室。それが視えてしまって、あわてて出た言葉だったのかもしれない。
そう考えると、彼が惜しんだのはあなたの技能ではないのかもしれない。十九年、彼が出勤したときに部屋が暖まっているという毎朝の事実だ。あなたはそれを、仕事の一部だと思っていた。社長は暖まっている部屋しか知らずに、十九年を過ごした。
第一章で、あなたは自分の六十歳、七十歳を思い浮かべて何も浮かばなかったと書かれた。それは当然のことだ。あなたが積んできたものは、あなたの側からは見えない場所に溜まっていた。あの日、湯呑みの向こうから、それが一度だけ姿を見せた。
あなたはから揚げが、半額でなくなった気がしたと書いた。私は値段の話ではないと思う。半額とは、本来の値打ちから引かれているという意味だ。あなたは長いあいだ自分を、本来の値打ちから何かを引いたものとして扱ってきた。その日、引くものは見つからなかった。それだけのことだ。
自分に問いかけるロードマップ
- 私はあの日、から揚げを「嬉しくて」買ったのか、「認められたから許されて」買ったのか。次の一皿で、どちらなのか確かめられるだろうか。
- 六十歳のあと、私はどういう形で働きたいのか。日数、時間、金額。社長に聞かれる前に、私自身が答えを持っているだろうか。
- 「隅から隅までわかっているのは私一人」という状態を、私は誇りとして持っていたいのか、それとも誰かに渡していきたいのか。渡す気になれない理由は何だろうか。
- 毎朝していたことのうち、私の側からは見えない場所に溜まっていたものは、他にもあるだろうか。
本日の羅針盤
エピローグでも、針は四本のまま置いておく。
ケンゴの針。 あの言葉は評価であり、同時に会社の未処理課題である。両方受け取ってよい。ただし嬉しさと労働条件は別の帳簿に書くこと。辞める必要はない。受けるなら、六十歳以降の形を紙にしておく。これは要求ではなく、十九年働いた人間の当然の業務連絡だ。
サキの針。 値札を握る人が、スーパーから社長室へ移っただけかもしれない。次にあの棚の前に立ったとき、社長の言葉を思い出さずに定価で買えるか。それが移動の確認になる。移っていなくても、悪いことではない。きっかけは誰からもらってもよい。
アキの針。 シールを待たなかった手を、まず祝う。頭が決める前に手が動いたなら、用意はもうできていた。祝うのと構えるのは、同時にやらなくていい。
シオンの針。 半額とは、本来の値打ちから引かれているという意味だ。あの日、引くものが見つからなかった。それだけのことだ。
そして、二万円の話に戻る。第二章でケンゴは、あの積立を「不安の口ふさぎから、選択肢の買い取りへ」と書き換えるべきだと言った。
いま、書き換えの相手が見つかった。あの二万円は、社長にどう答えるかを自分で決めるための資金だ。頼まれたから会社に残るのではなく、条件を見て自分で選んで残る。その一言を言える人間の背中に、貯金は立っている。
三百九十八円は、そこから引かれない。
参考情報リスト
情報正確性責任者(司)が名称・所管の実在を確認できたものに限り掲載します。数値の引用は行いません。
- 高年齢者雇用安定法(高年齢者等の雇用の安定等に関する法律。事業主に65歳までの雇用確保措置を義務づけ、2021年4月施行の改正で70歳までの就業確保措置を努力義務として追加。所管:厚生労働省)
- 労働条件通知書(労働基準法に基づき、労働契約締結時に明示が必要な事項をまとめた書面)
- 各都道府県労働局「総合労働相談コーナー」(労働条件に関する無料相談窓口)
- ハローワーク(公共職業安定所。高年齢者の雇用・再雇用に関する相談を扱う)
- 日本年金機構「ねんきん定期便」および年金事務所(既掲)




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