第二章:「見えた」のではなく「呼ばれた」のかもしれない ― 子どもの目に映る世界の話
章のはじめに
第一章の最後、シオンは「五歳の子どもは、まだ偶然と必然を分ける線を持っていない」と言いました。この言葉をもう少しだけ掘り下げてみたいのです。なぜならこの相談文を何度も読み返すうちに、ひとつの違和感が浮かんできたからです。
それは「当たり」の二文字を、本当にこの子は”文字として”読んだのだろうか、ということです。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:あ、それ私も気になってた。五歳って、ひらがなは読める子も多いけど、「当たり」は漢字じゃない? ふつうに考えたら五歳児が瞬時に読み取るのは、難しい気がする。
ケンゴ:鋭い指摘だ。可能性は二つある。ひとつは当時、その子がすでに「当たり」という文字をお祭りや駄菓子屋の経験を通じて”形として”覚えていた、というケース。文字を読んだのではなく、図像として認識した。もうひとつは、記憶が後から補正されている可能性だ。実際には別の手がかりがあって、それを大人になってから「当たりと書いてあった」と再構成している。
アキ:うーん、でもさ。記憶が後から書き換わったって言っちゃうと、本人が「気のせいじゃない」って言ってる体験を、結局否定することになるよね。私はそれ、したくないな。
ケンゴ:否定ではない。記憶というのは誰のものであれ、思い出すたびに少しずつ編み直されていく。それは脳の性質の話であって、嘘をついているという話ではない。
アキ:……うん、それはわかる。ごめん、ちょっと身構えた。
シオン:……いや、今のやりとりは大切なことを照らしているように思う。
私たちはつい、「文字を読んだ/読まなかった」という二択で考えてしまう。けれど五歳の子どもにとって、世界はもう少し違うかたちで開かれているのではないだろうか。
たとえば夜の森を歩いていると、たくさんの木々の中でなぜか一本だけ、自分のほうに気配を向けている木がある、ということがある。子どもはそれを「見つけた」とは言わない。「あった」と言う。あるいは何も言わずに、ただそちらへ歩いていく。
ご相談者が箱の中をのぞき込んだとき、たくさんの紙の中で一枚だけが「気配」を持っていた ― そういうことだったのかもしれない。文字を読んだというのは、大人になって記憶に与えた説明であって、本当に起きていたのは、っと手前のことだった可能性がある。
つまり「見えた」のではなく、「呼ばれた」のだ。
アキ:……それ、なんかわかる気がする。子どもの頃って理由もなく、「これ」って選ぶことあったよね。シールでも、おもちゃでも。理由を聞かれても答えられないんだけど、本人の中ではちゃんと”こっち”なの。
ケンゴ:私はそういう感覚から遠いところで生きてきた人間だが、否定はしない。子どもの認知が大人とは違う構造を持っていることは、発達心理の領域でも繰り返し語られている。ただそれを「呼ばれた」と表現するかどうかは、本人の言葉の選び方の問題だろう。
シオン:そう、言葉の選び方の問題なのだ。「偶然、上に乗っていた」と言えば、世界は冷たく整う。「呼ばれた」と言えば、世界は少しだけ温かくなる。どちらが正しいかではない。どちらの言葉でこの記憶を抱えて生きていきたいか、なのだろう。
自分に問いかけるロードマップ
- 五歳のあのとき、私は「当たり」の文字を読んだのでしょうか。それとも、何か別のものに気づいて手が伸びたのでしょうか。
- 大人になった私は、子どもの頃に持っていた「理由もなくこれ、と選ぶ感覚」を、いまも持っているでしょうか。それともどこかに置いてきてしまったでしょうか。
- もしこの出来事を誰かに語るとき、私は「偶然」と語りたいですか、「呼ばれた」と語りたいですか。その選び方は、いまの私を映している気がしませんか。
本日の羅針盤(第二章)
この章でお伝えしたかったのは、出来事の真相を突き止めることではありません。むしろ、ひとつの出来事に複数の語り方が成り立つ、ということです。
ケンゴの言うように、記憶は思い出すたびに編み直されます。これは誰の記憶にも起きていることです。
アキの言うように、子どもには大人が失った直感の働き方があります。
そしてシオンの言うように、私たちは出来事そのものではなく、出来事に与える「言葉」のほうを長く抱えて生きていきます。
あなたが十年以上、この記憶を手放さずにいるのは ― もしかしたらまだ、この出来事にふさわしい言葉を探している途中だからかもしれません。急いで答えを出す必要はありません。三十歳になったとき、五十歳になったとき、また違う言葉が訪れることもあるでしょう。
その都度、箱の底で光っていた一枚の紙は、少しずつ違う表情であなたに応えてくれるはずです。



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