5歳で引いた「当たり」と26歳の「置き傘」。説明のつかない優しい記憶が、人生のお守りになる理由

番外編:二十年後の小雨の駅で ― もう一度、世界が傾いた話

編集長より

第三章までを書き終えたあと、ご相談者さまから編集部に短いお便りをいただきました。

「実はもうひとつ、似たようなことがあったんです。最近の話で、今回の相談のきっかけになった出来事です」


二十六歳の、たしか梅雨の入り口でした。

その日、私は仕事のことで頭がいっぱいで、傘を持たずに家を出てしまいました。夕方になって朝の予報の通り、空はぐずぐずと崩れはじめます。駅に着いた頃には、もう小雨が降っていました。

改札を出て、コンビニで安いビニール傘を買おうかと迷っていたとき、ふとロータリーの隅にあるベンチが目に入りました。誰も座っていないベンチの上に、たたまれた一本の傘がぽつんと置いてあったのです。

忘れ物だとすぐにわかりました。誰かが置き忘れたまま、たぶん何時間かそこに在りつづけたのでしょう。雨はだんだん強くなっていて、傘の柄には細かい水滴がついていました。

私はなぜか、足が止まりました。

その傘を持って帰ろうとしたわけではありません。ただ、五歳のあの日と同じ感覚が身体の奥でかすかに動いたのです。「これは、私に向かって置かれている」 ― そう思ったわけでもないのにそう思った、としか言いようのない感じでした。

私はベンチに近づきました。傘の横に、小さなメモのようなものが挟まれていました。透明なビニールテープで、柄に貼りつけてありました。雨に濡れて文字は半分にじんでいましたが、こう読めました。

『どうぞ、お使いください』

誰がなぜ置いていったのかわかりません。けれどその傘は、まるで私が来るのを待っていたかのようにそこに在りました。私は少しだけ迷ってから、深く一礼してその傘をひらきました。傘の内側は思ったよりも乾いていて、雨の音がぱらぱらと、やさしく響きました。

家に帰る道すがら、私は五歳のあの日のことを、はじめて誰かに話したいと思いました。

よりみちナビゲーターの対話

サキ:……これ、読んでいて胸の奥がしんとしました。

アキ:うん。私もちょっと言葉に詰まった。「私が来るのを待っていたかのように」って書き方、すごく正確だよね。「私のために置かれていた」とは言ってないの。あくまで「ような」なの。この距離の取り方に、この方の誠実さが出てる。

サキ:そうですね。五歳のときは、たぶん何も考えずに手が伸びた。でも二十六歳のときは、一度立ち止まって、迷って、深く一礼してから傘をひらいた。同じ「不思議」でも、受け取り方がちゃんと大人になっているんです。

アキ:あ、それ大事。一度目は「選ばれた」体験で、二度目は「選んで受け取った」体験なんだ。

サキ:はい。私、これがすごく尊いことだと思っていて。世界からの不思議な贈り物を、ただ受け取るだけじゃなくて、「ありがとうございます」と頭を下げてから受け取る ― それができる大人に、この方はなっていらっしゃる。

シオン:……そう。ここには五歳のあの日からの、長い時間が流れている。

五歳のとき、この方は世界に「呼ばれた」。二十六歳のとき、この方は世界に「応えた」。

呼ばれることは、誰にでも起こりうる。けれど応えるためには、長い時間をかけて自分の中に「礼をする場所」を育てなければならない。それは教えられて身につくものではなく、人生の小さな出来事のひとつひとつを丁寧に受け取ってきた人にだけ、自然と育つものなのだろう。

アキ:……シオンさん、ひとつ聞いていい?

シオン:どうぞ。

アキ:その傘を置いていった人は、誰だったんだと思う?

シオン:……わからない。けれどひとつだけ言えるのは、その人もまたいつかどこかで、誰かに何かを置いてもらった経験があるのではないだろうか。

世界にはそういう小さな贈り物の連鎖が、目に見えないところで続いている。五歳の日に箱の底で光っていた一枚も、二十六歳の日にベンチの上にあった一本も、もしかしたらその同じ連鎖のどこかから、この方のところへ届いたのかもしれない。

サキ:……それを受け取った人はいつか、自分でも誰かに何かを置く側になっていくんですね。

シオン:そう。そしてそのときにはもう、「不思議」とは呼ばないだろう。ただ当たり前のこととして、傘をたたんで、メモを貼って、ベンチに置く。それだけのことだ。

自分に問いかけるロードマップ

  • 五歳のあの日と二十六歳の夕方を、私はどこかで「つながっている」と感じているでしょうか。それとも別々の出来事として、心の棚の違う場所にしまっているでしょうか。
  • これまでの人生で、私は誰かに目に見えないかたちで「傘」を渡してもらったことが、他にもあったのではないでしょうか。気づかずに受け取っていたものはなかったでしょうか。
  • いま私は誰かのために、ベンチの上に何かを置ける人になっているでしょうか。それは物でなくてもよいのです。言葉でも、まなざしでも、沈黙でも。
  • 次に「世界が私のほうに少し傾いた」と感じる瞬間が来たとき、私は深く一礼をしてから受け取れる人で在りたいですか。

本日の羅針盤(番外編)

五歳の日の「当たり」と、二十六歳の日の「傘」。

このふたつの出来事は、おそらくつながっていません。論理的にはまったく別の出来事です。けれど、この方の人生の中では、確かに一本の細い糸でつながっています。

そしてその糸を結んでいるのは ― 世界の側ではなく、この方ご自身です。

五歳のとき、世界から何かを受け取ったという記憶を手放さずにいたからこそ、二十六歳の小雨の駅でもう一度、それを受け取ることができた。受け取る準備のある人のところにだけ、世界は二度目の不思議を差し出します。

これからも人生のどこかで、三度目、四度目の「ベンチの上の何か」に出会うことがあるでしょう。そのときにはどうぞ、今回と同じように一度立ち止まって、迷って、深く一礼をしてから受け取ってください。

そしていつか、あなたも誰かのために、ベンチの上に何かを置く側に回るときが来ます。そのときにはもう、不思議はなくなっています。

ただ当たり前のやさしさとして、あなたの手から誰かの手へ。

それが五歳のあの日から始まった長い長い物語の、本当の続きなのだと思います。

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