手にしたものが、誰かの名を呼ぶとき
ある人のことを、ふと思い出す瞬間があるんです。理由もなく、脈絡もなく。そして数日後に、その人が亡くなったと知る。そういうことが私には何度かありました。
ちょうど一か月前の今日もそうでした。知人のお父さんが亡くなったと知ったんです。偶然と言えば偶然なのでしょう。でも、それだけでは片づけられない気がして。
この一か月のあいだに、もう一つありました。立ち寄ったリサイクルショップの棚に、そのお父さんからいただいた物とそっくりの品が置いてあったんです。何気なく手に取った瞬間、あの人の顔が浮かびました。少しかすれた笑い声までが耳の奥でよみがえって。
これはあのお父さんが、挨拶に来てくれたのでしょうか。それとも私が一方的に何かを感じ取っているだけなのでしょうか。どう受け止めればいいのか、いまも答えが出ないままなんです。
よりみちナビゲーターの対話
シオン:手に取った物の冷たさを、いまもおぼえていらっしゃるのではないだろうか。陶器なら指先のひんやり、布なら少し埃を吸った乾いた感触。その質感が、記憶の扉を開けることがある。あなたが感じ取ったものを嘘だと断じる必要はないと思う。
サキ:そうですね。私もね、亡くなった祖母の家にあった鍋とそっくりのものを、台所用品の店で見つけたことがあって。手が勝手に伸びていました。理屈じゃないんですよね。あれは「思い出した」というより、「呼ばれた」に近い感覚でした。
アキ:わかる。その感じ、すごくわかるよ。でも、私はちょっと違う見方もしてて。人ってさ、一日にものすごい数のことを思い出してるんだよね。そのほとんどは、何も起きないまま流れていく。たまたま「思い出した数日後に訃報が届いた」一回だけが、強く記憶に残る。脳って、つながりを見つけるのが得意すぎるから。
サキ:そうですね。ただ、アキさん。たとえそれが脳のはたらきだったとしても、この方にとっての「手に取った瞬間の温度」は、本物だったんじゃないかと思うんです。説明がつくかどうかと心が震えたかどうかは、別の話のような気がして。
アキ:……うん。それはそうだね。私、説明したくなりすぎたのかもしれない。怖いのかな、説明できないことが。
シオン:ところで、ご本人の話に戻すならば。あなたが問うておられるのは「あれは何だったのか」ではなく、本当は「私はあの人を、まだ大切に思っていていいのか」ということではないだろうか。
挨拶に来たのか、自分が感じ取っただけなのか。そのどちらであっても、あなたの中にあの人の席が残っていたという事実は変わらない。問題は出来事の正体ではなく、その席をこれからどう温めていくかなのかもしれない。
自分に問いかけるロードマップ
- あの瞬間、私の手は何を確かめたかったのだろう。物そのものか、それとも、もう会えない人の輪郭か。
- 「挨拶に来てくれた」と思いたい自分は、その人に何を伝えそびれていたのだろう。
- 偶然か必然かを決めることで、私はいったい何を手放そうとしている、あるいは手放さずにいようとしているのだろう。
- この一か月、その人のことを思い出すたび、私の暮らしはどんなふうに変わっただろうか。
本日の羅針盤
虫の知らせが「届いた」のか、あなたが「受け取った」のか。その境目を確かめることはおそらくできません。けれどシオンの言うように、確かめられないからこそ残るものがあります。
サキの言うとおり、手に取った瞬間の温度は本物でした。アキの言うとおり、それは脳のはたらきかもしれません。この二つは矛盾しません。説明がつく出来事の中に、説明のつかない大切さが宿ることは十分にあり得ます。
亡くなった方への思いがふとした品物を通して立ち上がるとき、それを「気のせい」と切り捨てる必要はありません。同時に、「お迎え」や「知らせ」と決めつけて不安を抱える必要もありません。あなたの中に、その人を思う席が確かにあった。今日のところは、それだけを静かに受け取っておかれてはいかがでしょうか。
なお、こうした体験が続いて気持ちが落ち着かない、あるいは眠れない・日常に支障が出るといった場合には、グリーフケアの専門家やお住まいの地域の相談窓口に話を聞いてもらうことも、心を整える一つの方法です。



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