対向車のナンバーが、二十年前の記憶を呼ぶとき
私は四十代の半ばを過ぎた、ごく普通の勤め人だ。平日は車で郊外の事業所まで通っている。片道四十分、信号の少ない県道を走る時間は、頭の中の引き出しが勝手に開いては閉じる、不思議な時間でもある。
その日も特に、何を考えていたわけではなかった。ハンドルに置いた左手の薬指の付け根に、結婚指輪の縁が冷たく当たっていたのを覚えている。ラジオは消していた。フロントガラスの向こうで午後の光が、街路樹の影を縞模様に切っていた。
ふいに、ある人の顔が浮かんだ。二十年前、一時期だけ親しくしていた人だ。別れ方が良くなかったので、それ以来こちらから連絡を取ったことはない。むしろ、もう会わないほうがいい人として、心の奥の引き出しに鍵をかけてきた人だった。
なぜ今、と思った瞬間、対向車線から白い軽自動車が走ってきた。すれ違いざま、ナンバープレートの下四桁が視界に飛び込んできた。あの人の携帯電話の下四桁と、まったく同じ数字だった。ぞろ目でもなければ、覚えやすい並びでもない。バラバラの四桁が、私の記憶の底にだけ刻まれている数字と、寸分違わず一致していた。
偶然だ、と思った。思おうとした。
翌日、同じ道を走っていた。前日のことを反芻していたら、対向車線に二台続けて車が現れた。一台目のナンバーの下二桁が、電話番号の上二桁。続く二台目の下二桁が、電話番号の下二桁。順番に並べれば、あの番号そのものになる。
ハンドルを握る手が、少しだけ汗ばんだ。何か意味があるのか、ただの偶然なのか。誰かに話せば笑われる気もする。けれど笑い飛ばすには、胸の奥に妙な熱が残っていた。
シオンは、古い木の机に肘をついて、しばらく窓の外の暮れかけた空を眺めていた。そしておもむろに口を開く。
「不思議な話だ、と片付けてしまうのは簡単かもしれない。けれど、私は少し違う角度から眺めてみたいと思う。──数字が偶然そろったこと自体よりも、あなたがその瞬間、その人のことを思い出していたという事実のほうに、私は耳をすませたい」
シオンは続ける。
「人の記憶というものは引き出しに鍵をかけたつもりでも、湿気のようにどこからか滲み出してくるものではないか。二十年という歳月は忘れるには十分な時間に思えるけれども、本当に消えたのなら対向車のナンバーごときで蘇りはしない。むしろ──蘇ったということはまだそこに、ほどけていない結び目があるのかもしれない」
サキが湯呑みを両手で包むようにして、ゆっくり頷く。
「そうですね。私もふとした瞬間に、昔の人を思い出すことがあります。洗濯物を干していて、ベランダの手すりの冷たさに触れた瞬間とか。あれはたぶん天気とか光とか、身体のどこかが覚えている記憶が勝手に呼び起こすんだと思うんです。だから運転中にぼんやりしている時間って、たぶん心がいちばん無防備で、奥のほうから何かが浮かびやすいんですよね」
サキはそこで、少しだけ間を置いた。
「ただ、シオンさん。私は少し違って感じていて──結び目をほどく必要が本当にあるんでしょうか。この方はもう会わないほうがいい人だと、ご自分で決めていらっしゃる。その判断は二十年かけて出した答えだと思うんです。数字の符合に意味を読みすぎると、せっかく閉めた引き出しをまた開けにいってしまう気がして」
ケンゴが、腕を組んだまま口を開く。
「サキさんの言うことはわかる。実際、確率論で言えば四桁の数字が一致する確率は一万分の一だ。一日に何十台もの対向車とすれ違う中で、しかも『下四桁』『上二桁と下二桁の組み合わせ』と、こちら側で照合の幅を広げれば確率はさらに上がる。脳が一致を探しに行っているというのが冷静な見方だろう」
ケンゴは湯呑みを置いた。
「ただ──その『脳が探しに行った』という事実こそが問題の核心じゃないかと、私は思っている。なぜ今、二十年前の人を探しに行ったのか。仕事のストレスか、家庭の倦怠か、年齢的な節目か。ナンバーの謎を解くより、自分の今を点検するほうがよほど実りがある気がする」
シオンは二人のやり取りを聞きながら目を細めた。それから、誰に向けるでもなく呟いた。
「サキさんの『開けにいかなくていい』も、ケンゴさんの『自分の今を点検する』も、どちらも正しいのだろう。ただ、私はこう思っている。──意味があるかないかを決めるのは出来事のほうではなく、それを受け取った人のほうだ、と」
シオンは、ゆっくりと続けた。
「古い時計の振り子のように、人の心には振れ幅というものがある。二十年前に止まったはずの振り子が、何かのきっかけでほんの少しだけ揺れた。その揺れにあなたが気づいた。それだけのことかもしれない。けれど、気づいたという事実は消えない」
気づきのために、自分に問いかけたいこと
この出来事を不思議な現象として消費するのではなく、自分の内側を覗く窓として使うなら、いくつかの問いが立ち上がってきます。
- あの人を思い出した瞬間、自分は何を考えていただろうか。仕事のことか、家族のことか、それとも「自分の人生はこれでよかったのか」という、もっと大きな問いだっただろうか。
- 「もう会わないほうがいい」と決めた当時の自分と、今の自分は同じ判断を下すだろうか。
- 会いに行きたいのか、それとも当時の自分自身に会いに行きたいのか。
数字は数字でしかありません。けれどその数字を「意味あるもの」として拾い上げたあなたの心の動きには、たしかに何かが宿っています。
本質的な結論——複数の視座を残したまま
シオンの視座:数字の符合は出来事というよりも、あなたの内側にある「まだほどけていない結び目」が表に出てきた合図なのかもしれません。意味を急いで決めず、しばらく心の振り子の揺れをただ眺めてみる時間があってもよいのではないでしょうか。
サキの視座:二十年かけて出した「会わない」という答えを、軽々しく揺らがせる必要はありません。結び目はほどかずに眺めるだけでも、十分に意味があります。
ケンゴの視座:不思議さに留まるよりも、「なぜ今、自分はあの人を思い出したのか」と自分自身の現在地を点検することのほうが、実りがあるでしょう。
三つの視座のうち、いまあなたの体温に最も近いのはどれでしょうか。答えを一つに絞る必要はありません。揺れたまま、しばらく持ち歩いてみることをお勧めします。
※もし、過去の人物の記憶が日常生活に支障をきたすほど繰り返し浮かんでくる場合は、信頼できるカウンセラーなど専門家への相談もご検討ください。心を整える手段は、一つではありません。



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