積み上げた本は、まだ一冊も開いていない
私は今年で五十を過ぎた、地方都市で電気工事の会社を営む男です。妻に先立たれ、今は一人で暮らしています。
三年ほど前、体を壊して現場に立てなくなってから、私は経営の勉強を始めました。財務、マーケティング、組織論。神田の古書店で買い込んだ本が、事務所の机に背表紙をこちらに向けて積まれています。表紙の艶が、蛍光灯の光をぬめっと返してくる。付箋も貼りました。ノートも取りました。「明日から」と、何度も思いました。
けれど朝になると、私はまた新しい本の目次を開いている。取引先への値上げ交渉も、若い職人の採用も、頭の中では百通りのシミュレーションが済んでいるのに、電話一本かけられない。知っているのに動けない。この右手が、受話器の手前で止まってしまう。私はいったい、何を集めているのでしょうか。
よりみちナビゲーターの対話
ケンゴ: まず、状況を切り分けたい。あなたは「知識が足りないから動けない」と考えているようだが、私はそうは思わない。むしろ逆だ。知識を集める行為そのものが、行動しないための正当な口実になっている。「まだ準備が足りない」という感覚は、いくらでも延長できる。財務の本を十冊読めば、十一冊目が欲しくなる。これは能力の問題ではなく、構造の問題だ。集めるほど動けなくなる。そういう回路が出来上がっている。
アキ: うん、構造の話はわかるよ。わかるんだけど……ケンゴさん、その言い方だとこの人が「サボってる」みたいに聞こえない? 私はそうは思わないな。だってさ、机の上に本を積むって、けっこうしんどい作業だよ。付箋貼って、ノート取って。あれって本当は、動きたくてたまらない人がやることだと思う。体が動けないぶん、手だけでも何かを掴んでおきたい。その必死さのほうが、私には見えるよ。
ケンゴ: アキの言うことも分かる。ただ──必死さを認めるだけでは、机の上の本は一冊も減らない。私が言いたいのは責任追及ではなく、逆算の話だ。この方は体を壊し、現場を退いた。つまり残された時間の中で、会社という船をどう次の港へ着けるか、そういう問題を抱えている。五年後を起点に考えれば、今日かけられなかった電話一本の遅延が、後で取り返しのつかない差になる。だからこそ知識ではなく、締め切りが必要なんだ。
サキ: お二人の話、どちらも大事だと思うんです。ですよね。行動の設計も、気持ちのケアも。ただ、私は一つ気になっていて。ケンゴさんの「五年後から逆算」って正しいんですけど、正しすぎて、この方の朝を余計に重くしませんか。奥様を亡くされて、一人で朝を迎えて、それでも本を開く。その毎日がもう、十分に必死な生活だと思うんです。逆算の前に、まず今日の一日が回っているか。私はそこから見たいんです。
ケンゴ: ……その指摘は受け止める。私は構造を語るとき、生活の重さを軽く見積もる癖がある。確かに生活が立ち行かない人間に、「五年後」の話は届かない。
自分に問いかけるロードマップ
ところで、ご本人の話に戻りますが──あなたが本当に恐れているのは、知識の不足でしょうか。それとも行動した結果、期待した成果が出ないことでしょうか。
次の問いを自分に向けてみてください。
- 私が「もっと勉強してから」と言うとき、その「もっと」に、いつか終わりは来るのだろうか。
- 電話をかけて断られたとして、それは本を読み続けるより悪い結果なのだろうか。
- 私は成果を出したいのか、それとも「まだ挑戦していない自分」という余地を、手元に残しておきたいのか。
本日の羅針盤
ケンゴの視座に立てば、答えは明快です。知識の入力を一度止め、明日の午前中に電話を一本だけかける。目的は成果ではなく、「動いた」という事実を一つ作ること。行動が止まっているとき、必要なのは知識ではなく、小さく確定した締め切りです。
一方でサキの視座は、その締め切りをあなた自身に許すための土台を問います。まず今日の生活が回っていること。それが崩れていては、どんな行動計画も机上に積まれた本の仲間入りをするだけです。
そしてアキの視座は、あなたのその「集める手」を否定しないでほしいと言います。積まれた本は、あなたが動きたかった証拠でもある。
無理に一本化はしません。一つだけ言えるのは、知識は行動の手前で待っていてくれるということです。半分しか知らないまま電話をかけても、本の内容が消えるわけではない。むしろ動いた後にこそ、付箋の意味が変わって見えてくるはずです。
なお、体調を崩された経緯や一人で抱え込む日々の重さについて、気持ちの沈みが続くようでしたら、産業保健の窓口や医療機関など専門機関への相談もご検討ください。それも立派な「行動」の一つです。





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