朝礼で社歌、PC不使用、社訓12個。「古き良き社風」の正体を見抜く三ヶ月

「古き良き」という名の精神論

朝八時半。オフィスの蛍光灯は白く、机の並びは定規で引いたようにまっすぐだ。私のデスクには支給されたA5のノートと、黒いボールペンが二本置かれている。パソコンは一台もない。窓の外で工事のクレーンが動く音がして、その音のほうがよほど現代的だと思う。

九時になると、上司が『仕事のプロ』という本を開く。背表紙の文字は長く触られ続けたせいか、端が擦り切れて白っぽい。
朗読が始まる。全員、手元の紙に視線を落としたまま、黙って聞く。
続いて社歌。前の席の男性が大きな声で歌い出す。私は口は動かすが、声は出ない。
「お疲れ様でした」は禁止で、代わりに「ありがとうございます!」を大きい声で。
お茶出しは新人の仕事で、急須の重さを確かめながら、四十代の上司の机に湯呑みを置く。

社訓は壁に十二ある。どれも人情と熱意を説く言葉で、読むたびに鳩尾(みぞおち)のあたりが重くなる。精神論ばかりだ、と思う自分がひねくれた人間なのだろうかとも思う。

私は、退職歴が多い。履歴書を書くたびに行が増えていくのが嫌で、今度こそ腰を据えたいと思ってこの会社を選んだ。面接では「古き良き社風です」と言われた。古き良き、という言葉の輪郭を、私は見誤ったのかもしれない。

慣れるまで努めるしかないんでしょうか。それとも、の違和感は、私がまた逃げる言い訳になるんでしょうか。毎朝、社歌の二番が終わる頃、私は自分にそう問いかけている。

ケンゴとサキによる対話

ケンゴ:読ませてもらった。まず、君が挙げた六項目――毎朝の書籍朗読、社歌、PC一切不使用、「お疲れ様でした」の全面禁止、お茶出し、社訓十二個――これを全部重ねて毎日やっている会社に出会って、違和感を覚えないほうがむしろ神経が鈍いと思う。君の感覚は正当だ。

サキ:湯呑みを置く指先が震えるという描写、読んでいて胸が苦しくなりましたよ。身体が先に答えを出しているんですよね。頭では「慣れなきゃ」と思っていても、身体のほうが「ここは違う」と言っている。

ケンゴ:その上で、一つだけ言っておきたいことがある。面接で「古き良き社風です」と説明された、というくだりだ。これは俺の個人的な感覚だが、この会社は「古き良き」でもなければよく世間で言われる「昭和的」という表現すら、正確ではないと思っている。

サキ:というと、どういうことですか。

ケンゴ:俺は四十代後半で、昭和の終わりをかろうじて知っている世代だ。親父の会社にも、俺が新卒で入った会社にも、朝礼はあった。社訓唱和も、社歌もあった。だから君が挙げた項目の一つ一つを見れば、昭和の職場にも似たものはあった、と言える。だが、これを全部重ねて毎日やる会社は、昭和の当時でも多数派ではなかった。当時の基準で見ても、少し変わった会社と言われる水準だ。

サキ:その時代の基準でも極端な一社だった、ということですね。

ケンゴ:そうだ。だから俺はこの社風を、「古い」とか「昭和的」という時代の枠で理解しないほうがいい、と思っている。時代の問題にしてしまうと、君は「時代に馴染めない自分」という敗者の顔で毎朝通勤することになる。違う。君が出会っているのは特定の経営者の思想で作られた、特殊な一社だ。

「古き良き」という言葉の、本当の中身

サキ:ケンゴさん、一つ伺っていいですか。面接で「古き良き」と言われたことが、相談者さんの中にずっと引っかかっていると思うんです。その言葉の本来の意味って、どういうものだったんでしょう。

ケンゴ:いい問いだ。「古き良き」と呼ぶに値するかつての日本の職場文化には、確かに価値のある要素があった。これは懐古でも美化でもなく、事実として挙げられる。

①長期的な人材育成
新人に三年、五年かけて仕事を教える。短期成果ではなく、人が一人前になるまでの時間を会社が引き受ける文化があった。これは今の「即戦力」「タイパ」偏重が失いつつあるものだ。

②丁寧な対人作法と、その裏の実利
挨拶を丁寧にする、先輩を立てる、お茶を出す。形式だけ見れば古臭い。だが本質は、「仕事は人と人の間で動く」という前提への敬意だった。お茶出しも、新人が上司と短時間でも言葉を交わす接点を作る実務的な仕組みだった側面がある。

③手と身体を通した学びへの信頼
手書き、手作業、対面の打ち合わせ。デジタルで代替できる部分は多いが、手を動かして覚えた型は頭だけの理解より深く残る。これは一概に、古いとは言えない話だ。

サキ:つまり、「古き良き」と呼ぶに値するものは、形式の裏にその時代の条件下で合理的だった実利があった、ということですよね。

ケンゴ:そうだ。そして俺が言いたいのは、ここからが本題になる。

では、いま目の前の会社はどうなのか

ケンゴ:君の会社で起きていることを、この「形式と実利の接続」という眼で見直してみよう。

毎朝の書籍朗読――もし朗読後に内容について議論があり、仕事への応用が語られるなら、それは学びの時間だ。だが、ただ聞くだけで議論がないなら学びではなく、服従の確認に近い。

PC一切不使用――手書きに学びの深さがあるのは事実だ。だが、取引先との書類、見積もり、発注、請求。現代の商流の中でPCを一切使わない運用は、実務ではなく思想の表明になっている可能性が高い。

「お疲れ様でした」禁止、「ありがとうございます!」強制――挨拶の中身ではなく、声量と同調性を計測する儀式に変質している疑いが強い。古き良き会社の丁寧な挨拶は、相手を思う気持ちと接続していた。声量の大きさで計るものではなかった。

社訓十二個――一つか二つの明確な理念が、日々の判断の基準になる会社はある。だが十二個というのは多すぎる。多すぎる社訓は実務を導く指針ではなく、精神を占有するための装置に近い。

サキ:一つ一つは昔からある形式かもしれないけれど、それぞれの中身が、仕事の実利と切れているんですね。形だけ引き継いで、意味が抜け落ちている。

ケンゴ:俺の見立てでは、この会社は「古き良き」を名乗っているが、実際には古き良きの形式だけを借りて、現代の経営者が独自に組み立てた特殊な文化だ。昔の職場を実際に知っている人間から見ても、違和感がある構成物だ。
だから君が馴染めないのは、時代の問題でも君の適応能力の問題でもない。形式と実利が切れているものに対して、君の判断力が正当に働いている。それだけだ。

診断セクション:切り分けるべき三つの認知

ケンゴ:整理するために、三つ切り分けておこう。

切り分け①:「時代への不適合」ではなく「特定の一社への不適合」
君は時代から取り残されているのではない。特殊な構造の会社に、感覚が正当に反応しているだけだ。面接で使われた「古き良き」という言葉を、そのまま受け取る必要はない。

切り分け②:「精神論=全部悪」でもない
長期戦を戦い抜くための胆力、という意味での精神論には、いまも一定の価値がある。問題は精神論そのものではなく、実利と接続していない精神論だ。社訓十二個を毎日唱える行為が君の仕事の質を上げているか。上げていないなら、それは空虚な儀式だ。

切り分け③:「退職歴が多い自分」と「今回の違和感」は別の話
過去の退職歴があっても、今回の違和感は今回の違和感として独立に評価されるべきだ。履歴書の行数は過去の事実、いま目の前で起きていることは別の事実。混ぜて計算しない。

本質的な結論:君の違和感の正体は、「古き良き」という看板と、実際に提供されているものとの間の大きなズレだ。
かつての日本の職場文化には、長期的な育成、丁寧な作法、手を動かす学びといった、本当に「古き良き」と呼ぶに値する要素があった。それらは形式と実利が噛み合っていたから、機能していた。いま君の目の前にあるのは、形式だけを抽出して再構成した特殊な一社であり、実務を知っている者から見ても違和感のある構成物だ。
君が取るべき姿勢は、時代への適応努力でも、即座の撤退でもない。「古き良き」と呼ばれるものの本当の中身を見極める眼を持ち、目の前の一社を、一社として冷静に評価する
この切り分けができた時、慣れるか辞めるかという二択はもっと立体的な選択肢に変わる。その具体的な作業を、次章から進めていこう。

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