第三章 朝のレジを打ちながら、私はもう答えを知っていた
朝六時に目が覚める。娘はまだ寝ている。コーヒーをインスタントで一杯淹れて、立ったまま飲む。七時半に家を出て、自転車でスーパーまで十分。八時にバックヤードに入り、エプロンを締めて、八時半に開店と同時にレジに立つ。
このスーパーで働き始めて、もう五年になる。朝のレジは年配のお客さんが多い。八時半から十二時までの三時間半で、たぶん百五十人くらいのレジを打つ。バーコードを通す手の動きは、もう考えなくてもできる。視線は商品とレジの画面のあいだを行き来して、ときどき顔を上げて、お客さんの表情を一瞬だけ確認する。
九時を回った頃、いつもの常連の女性が来た。たぶん七十代後半。買い物かごの中には、いつもと同じ食パンと牛乳と卵と、それから猫の餌の缶詰が四つ。レジを打ちながら「今日はええ天気ですねえ」と私が言うと、「ほんまやね、洗濯日和や」と返してくる。それだけだ。それだけなのに、その人がエコバッグに商品を詰めて店を出ていったあと、レジの内側の私の体は、なぜか少し軽くなっている。
その後ろに並んでいた中年の男性は、こちらが「ポイントカードはお持ちですか」と聞いたタイミングで、もう小銭を数え始めていた。聞こえていたのか、いなかったのか、わからない。会計を済ませて出ていったあと、私はまた自分の声を一度確かめたくなった。
同じ朝のレジで、同じ三分くらいの時間。なのに、後ろに残るものがまったく違う。これを「波長」と呼ぶのか、と私はバーコードを通しながらぼんやり考えていた。
でも、ふと気づいた。考えながらも、私の手はずっと動いている。レジは止まらない。次のお客さんが来て、私はまた「いらっしゃいませ」と言う。「波長」とは何か、なんて答えは出ていないのに、体はもう次の人との一往復に入っている。たぶん、それでいいのだろう。
朝のレジの内側で、四人の声が流れる
シオン:朝のレジで「考えながらも手は動いている」という感覚は、たぶん答えに非常に近い場所にあるように、私には思えた。「波長とは何か」を頭で問いながら、体はすでに次の人との関わりに入っている。問いと動作が、同じ時間の中で並んで流れている──これはたぶん、この方が五年と七年をかけて二つの現場で身につけてきた状態だ。
サキ:そうですね。朝のスーパーで百五十人、夕方からの店で五十人。一日二百人と短い言葉を交わす生活を、もう五年以上続けてきている方ですよね。その体に、何も染み込んでいないわけがない。たぶんこの方は、「波長」という言葉を考え始める前からもう波長を読み取って、応じて、流していくということを毎日二百回繰り返してきたんですよね。
アキ:これ、すごく大事な話だと思う。私たちって、何かわからないことがあるとまず言葉で説明しようとしちゃうじゃない?「波長って何だろう」って。でも、この方の体はもう答えを持ってる。説明できないだけで、できないことと知らないことは別なんだよね。
ケンゴ:その指摘には同意するが──ここで一つ、はっきり言っておきたいことがある。「体が知っているからそれでいい」と片付けてしまうのは、少し違うと思う。なぜ五年も七年もこの方が同じ問いを抱え続けているのかと言えば、体は知っているのにその体の知り方が、社会の中で十分に評価されていないからだ。
ケンゴ:レジを百五十人、カウンターを五十人、一日十時間以上”合わせ”続けている人の感受性は、本来であれば高度な専門技能だ。だがそれは「パート」「個人店主」という肩書きの中で、対価としても、敬意としても、正当に支払われていない。「波長」という言葉に立ち止まる時間がこの方にとって必要なのは、その不当さに、たぶん体のほうが先に気づいているからだ。
アキ:……ケンゴさん、それ厳しい話だね。でも、わかる気がする。
サキ:ケンゴさんのおっしゃること、私もたぶん同じ場所で感じています。ただ、私は少し違って付け加えたいんですよね。社会の中で評価されていないのは事実かもしれません。でも、この方の朝のレジで「今日はええ天気ですねえ」「ほんまやね、洗濯日和や」を交わした七十代の常連の女性は、たぶんこの方の感受性を、ちゃんと受け取っているんです。社会全体は気づいていなくても、目の前のあの一人は、もう気づいている。それは小さいけれど、嘘ではない受け取られ方なんですよね。
ケンゴ:……それは、そうだろう。社会の側の話と目の前の一人の話を、混同してはいけなかった。
アキ:でもさ、両方とも本当のことだよね。社会には届いていない。でも、目の前の一人には届いている。その二つを抱えたまま、この方は明日もレジに立つんだよ。
「答えを出さない」という答え
サキ:三章にわたって、四人で「波長とは何か」を話してきましたけれど、けっきょく明快な定義は出ていないんですよね。でも、それでいいような気がしています。この方の手はもう動いているので。
アキ:うん。むしろ明快な定義が出ちゃったら、たぶんこの方の体は窮屈になる。「これが波長だから、こう対応しなさい」みたいなマニュアルになっちゃって。それは二百人と短く向き合う仕事には、たぶん向かない。
ケンゴ:定義を急がないという判断も、一つの専門性だと思う。私は構造として整理したがる癖があるが、整理しないままで保つことのほうが、より高度な技能であることもある。今回のテーマはたぶん、そちら側だ。
シオンの結び──手の動きの中に、すでに答えはある
三人の声が静かに収まったところで、シオンが最後の言葉を置いた。
シオン:「波長が合う人」と「波長が合わない人」の両方に毎日二百回向き合っている方の体には、もう答えが流れている。バーコードを通す手の速度の中に、声のトーンの調整の中に、視線を上げるタイミングの中に。それは、言葉になる前の答えだ。
シオン:言葉にはしなくていい。むしろ言葉にしてしまうと、こぼれ落ちるものが多すぎる。「波長」という袋は便利すぎて、本当はその中にある無数の繊細さを、平らにしてしまう。だから答えを言葉で持つよりも、手の感触として持っているほうがずっと豊かなのだ。
シオン:合わせるために何かするかという最初の問いに、私はこう答えたい。あなたはすでに、合わせるべきところでは合わせ、合わせなくていいところでは引いて、合わない人とは合わないままで並走する──そのすべてを、考える前にやっている。明日もそれは続く。それで、十分だ。
結びに代えて
十二時にレジを上がる。バックヤードでエプロンを外して、簡単な昼食を済ませて、自転車で家に戻る。午後三時には、自分の店のシャッターを上げる。今日も五十人ほどのお客さんが、カウンター越しに来るだろう。合う人もいれば、合わない人もいる。それでいい。
店のシャッターを上げる音が、商店街の午後の空気に小さく溶けた。私の手は、もう次の動作に入っている。
本章の気づき──答えは、考える前から手の中にある
「波長が合わない人と、どう付き合うか」という問いに、明快な答えはありません。けれど、長く同じ仕事を続けてきた人の体には、すでに答えが流れていることがあります。
サキが指摘したように、一日二百人と短い言葉を交わす生活を続けてきた人の感受性は、もう問いを立てる前から波長を読み取り、応じ、流していくことを毎日繰り返しています。アキが言うように、できないことと知らないことは別であり、説明できなくても体は知っています。
ケンゴが厳しく指摘したように、その感受性が社会の中で正当に評価されていないことも、確かに一つの真実です。けれどサキが補ったように、目の前の一人──朝のレジで「洗濯日和や」と返してくれる七十代の常連の女性──は、ちゃんと受け取っています。社会全体は気づかなくても、その一人は気づいている。
そしてシオンの言うように、波長を言葉で定義しすぎないことも一つの専門性です。手の感触として持っているほうが、ずっと豊かなのです。
カウンターの内側で、レジの内側で、毎日たくさんの「合う」「合わない」と向き合っているあなたへ。あなたの体はもう、答えを持っています。合わせる時間と、合わせなくていい時間。両方を抱えたまま、明日もシャッターを上げてください。それで、十分です。
※もし、”合わせる”労働が続き、夜の一往復でも回復しない疲れが溜まってきたと感じるようでしたら、地域の保健センターや、女性のための相談窓口、また労働に関する公的な相談窓口を一度頼ってみることも、自分とご家族を長く守るための知恵のひとつだと思います。




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