エピローグ 「機嫌のいい十分」を集める人
あれから、ひと月ほどが経った。
相変わらず私は、平日は事務の仕事をして、夕方には少し疲れて帰ってくる。働いて、疲れて、休んで、また働く。そのサイクルそのものは、何も変わっていない。劇的な趣味も見つかっていないし、何かを極めようという気持ちも、正直まだ湧いてこない。
ただ、ひとつだけ始めたことがある。寝る前にその日「少しだけ機嫌がよかった瞬間」を、手帳の隅に一行だけ書く。それだけ。
最初の数日は、何も思い浮かばなかった。「特になし」と書いた日もある。でも一週間ほど続けたある夜、私は手帳を見返して少し驚いた。
「朝のコーヒーの一口目」 「昼休み、窓際の席に当たっていた光」 「帰り道、金木犀の匂いがした」 「クッキーが前より少しうまく焼けた」
誰に見せるものでもない。点数にもならない。意味があるのかと問われたら、たぶん「ない」と答えてしまう類のものばかりだ。でも、その一行たちは確かに私の一日に起きたことだった。取り消せない、小さな事実。
ある日曜日。私はまた台所でクッキーを焼いていた。オーブンの前にしゃがんで、ガラス越しに生地がふくらんでいくのをただ眺めていた。バターの甘い匂いがゆっくり台所に満ちてくる。
以前ならここで、「これって趣味なのかな」「意味あるのかな」と、採点の声が始まっていた。でも、その日は違った。心の中で誰かの声を借りるように、こうつぶやいてみたのだ。「採点するのは、今日はお休み」。
すると、不思議なくらい静かになった。
ふくらんでいく生地。温かいガラス。甘い匂い。それだけがそこにあった。私は何も探していなかったし、何にもなろうとしていなかった。ただしゃがんで、待っていた。その十分が、妙にいとおしかった。
焼き上がったクッキーを一枚つまみながら、窓の外を見た。夕方の光が、台所のタイルに長い影を落としている。
「このまま年を取っていいのかな」
その大きな問いは、まだ消えていない。たぶん、これからも時々私の前に立つのだろう。でも、前ほど怖くなくなっていた。答えはまだ出ていない。出さなくてもいい、と今は思える。
問いを棚に置いたまま、その下で機嫌のいい十分を一つずつ拾っていく。コーヒーの一口目。窓際の光。金木犀。焼きたてのクッキー。
たぶん私の人生は、これからもそんなに劇的には変わらない。働いて、疲れて、休んで、また働く。でも、そのサイクルの隙間にこうして小さな温度を差し込んでいけるなら、それは案外悪くない過ごし方なのかもしれない。
手帳に、その夜の一行を書いた。
「採点をやめたら、焼き立てのクッキーがちゃんと匂った」
ペンを置いて、私は少しだけ笑った。誰も見ていない、私だけの笑いだった。
サキ:……この最後の一行を読んで私、台所のタオルみたいに胸の奥がふわっと軽くなりました。この方は新しい趣味なんて見つけていない。人生も変わっていない。でも、匂いがちゃんと匂うようになった。それで十分なんです。十分すぎるくらい。
ケンゴ:私は最初、構造を変えろ、時間を確保しろと言った。それも間違いじゃない。だが、この方が手に入れたのは構造より先に、もっと根っこのものだった。「採点をやめる」という、自分への許可だ。それがあれば枠はあとからついてくる。順番を教えてもらったのは、こっちのほうかもしれないな。
シオン:問いは消えていない。けれど、怖くなくなった。それでいいのだと思う。人は大きな問いに答えを出して救われるのではなく、その問いと並んで歩けるようになったとき、ふと楽になるものではないだろうか。クッキーの匂いの中で、この方は問いと並んで歩く術を自分で見つけたのだ。
本日の最後の羅針盤
趣味がなくても人生は終わりません。劇的に変わらなくても構いません。あなたに必要だったのは新しい何かを足すことではなく、すでにそこにある小さな温度を、採点せずに受け取る許可でした。
機嫌のいい十分を一つずつ。それを拾い集めていく人の人生は、たとえ外から見て何も変わらなくても、内側では確かに色を変えていきます。
どうか今夜のコーヒーの一口目を、採点せずに味わえますように。
もし、空虚さや問いの重さがどうしても和らがず、二週間以上つらい状態が続くようでしたら、心療内科やカウンセリングなど専門機関への相談もご検討ください。問いと並んで歩く道のりに伴走してくれる人は、外にもいます。




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