第三章 次に喉が渇いたとき、あなたが何を持っているか
三月、まだ弾いていないビオラの話
二月から練習を休んでいます。ケースを開けていません。やめたわけではなくて、開けたらどう感じるかが怖いだけです。楽器のことは好きなはずなんです。あの人は嫌いだけれど、ビオラのことは嫌いになりたくない。それだけはまだ守れている気がします。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:それ、すごいことだよ。ちゃんと分けられてる。人が嫌いなことと、その場所でやってたことが嫌いなことは別。ここをぐちゃっと一緒にしちゃう人、本当に多いんだよね。嫌な上司がいたから業界ごと嫌いになる、みたいな。あなたは半年しんどい思いをしても、ビオラだけは別枠に置いてる。それは守るのがうまいってことだと思う。
ケンゴ:同感だ。その上で私から一つ、現実的な話をしたい。オーケストラという場はそもそも設計上、逃げ場がない。同じパートの人間と隣り合って、同じ譜面台を見る。人間関係のトラブルが起きたとき、物理的に距離が取れない構造だ。だからあなたが取れる選択肢は、「我慢する」か「やめる」かの二つに見えている。
だが、第三の選択肢がある。場所を変えて、同じことを続けることだ。別の団体、少人数のアンサンブル、あるいは弦楽合奏だけの集まり。楽器を手放す必要はない。手放すべきは、譜面台の隣の席だけだ。
サキ:それは現実的ですね。ただ、私はもう少しゆっくりでもいいと思っています。三月に次を探し始めなくてもいいんですよ。この方はまだケースを開けるのが怖い状態です。その段階で「では次の団体を」と言われると、休むことにまで許可がいるみたいになってしまう。
ケンゴ:サキさんの言うことも分かる。私も期限を切るつもりはない。ただ、休むという状態は放っておくと「やめた」に自動的に変わっていく。それだけは避けたい。
だから、次を探せとは言わない。ケースを開ける日を決めろとも言わない。私が言いたいのは、やめる決断だけは、調子がいい日にしてほしいということだ。眠れていない夜に下した決断は、後から自分を責める材料になりやすい。
アキ:あ、それは私も同意。夜中の三時の自分に、人生の決定権を渡さないほうがいい。あの時間帯の判断って、だいたい全部きつい方に転ぶから。
サキ:そうですね。それなら私も賛成です。ケースは開けたくなった日に開ければいいですし、開けたくならないまま夏になっても、それはそれで構いません。松脂の匂いって、ケースを開けた瞬間に上がってきますよね。その匂いを嗅ぐ準備ができる日は、たぶん体のほうが先に教えてくれます。
シオン:あなたは「逃げてばかりいる」と言った。だが、この半年で手放さなかったものが、少なくとも一つある。それはあなたが自分で選んだ数少ないものだ。人は、自分で選んだものだけは案外手放さない。逃げるという言葉には、置いていくという含みがある。しかしあなたは、置いていっていない。抱えたまま立ち止まっている。それは逃走ではなく、待機と呼ぶべきものかもしれない。
自分に問いかけるロードマップ
- あなたが「嫌い」と感じているのは、人ですか。場所ですか。行為ですか。三つを分けて書いてみると、守れているものが見えてきます。
- ここ半年で、あなたが手放さなかったものを三つ挙げてください。仕事、生活習慣、持ち物、何でも構いません。それは、あなたが自分で選んだものではありませんか。
- 次に階段で喉が渇いたとき、あなたはどうしますか。引き返す、深呼吸する、五分遅れて入る。答えを一つ決めておくのではなく、選択肢を三つ持っておくことをおすすめします。
- 重大な決断をするなら、それは眠れた日ですか。眠れなかった日ですか。この基準を先に決めておくだけで、後悔の量は変わります。
本日の羅針盤
三章にわたって、四人の針はついに一本になりませんでした。編集部として、無理に束ねるつもりもありません。
アキの針:体の警報を判断材料として扱うこと。喉の渇きも眠れない夜も、克服すべき弱さではありません。
ケンゴの針:手札を増やすこと。切るか耐えるかの二択から、十分だけ、五分遅れて、場所を変えて、といった中間の手を持つこと。そしてやめる決断は、調子のいい日にすること。
サキの針:生活の維持を最優先にすること。朝ごはん、洗濯物、松脂の匂い。それらに手が伸びる日が、次に進める日です。
シオンの針:あなたが数えているドアの数を、誰も数えていないこと。そしてあなたが半年間、抱えたまま手放さなかったものがあること。
「私はどうすればよかったのでしょうか」。三章を通してこの問いに対する編集部の答えを、一つだけお渡しします。
あなたは間違えていません。ただ、選択肢が二つしかない状態で選ばされ続けただけです。
離れたことは正しかった。同時に、離れる以外の手を持っていなかったことがあなたを苦しめてきた。この二つは矛盾しません。次に必要なのは反省ではなく、手札です。
そしてそれを揃えるのは、眠れるようになってからで構いません。
なお、夜中に目が覚めて眠れない状態が続いていること、動けなくなる時間があることについては、意志や性格の問題として一人で抱え込まないでください。専門機関への相談もご検討ください。医療機関のほか、自治体のこころの健康相談窓口、勤務先や加入している健康保険組合の相談窓口なども利用できます。



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