人間関係をバッサリ切ってしまう自分に自己嫌悪…それは「逃げ癖」ではなく限界のサインです

エピローグ まんなかの音には、決まった大きさがない

五月、ケースを開けた夜のこと

四月の終わりに、ケースを開けました。開けようと決めた日ではなくて、部屋の掃除をしていて、ただ手が伸びた日でした。松脂の匂いが上がってきて、思っていたより平気でした。弦が緩んでいたので合わせて、二小節だけ弾いて、それでやめました。

それから、職場でも一つだけ変わったことがあります。例の同僚に「聞いてよ」と言われたとき、「今日はちょっと無理です」と言えました。声が震えていたと思います。相手は「あ、うん」と言って、そのまま自分の席に戻りました。それだけでした。何も起きませんでした。三日くらい、そのことをずっと考えていました。

オーケストラには、まだ戻っていません。ただ、隣町に弦楽アンサンブルの小さな集まりがあると知って、見学の申し込みだけしてみました。まだ返事は来ていません。

一つ、思い出したことがあります。私がビオラを選んだのは、高校で入部したときです。バイオリンも余っていて、先生は「どっちでもいいよ」と言いました。そのとき私はバイオリンでなく、ビオラを選んだんです。誰にも頼まれていません。あのときなぜそっちを選んだのか、自分でもうまく説明できないままここまで来ました。

よりみちナビゲーターの対話

アキ:ちょっと待って、そこ、すごく大事なところだよ。「どっちでもいいよ」って言われて、自分で選んだんだよね。誰にも「あなたは優しいから」って言われてない。「我慢できる子だから」でもない。それ、この半年間の話の中でたぶん唯一、あなたが自分の意思で座った席なんだよ。

サキ:本当ですね。しかもこの方、そのことをずっと忘れていたんですよね。忘れていたというより、大したことじゃないと思っていた。「余っていたから」「なんとなく」で片づけていた。でも、なんとなく選んだものを十年抱えていられる人って、そんなに多くないですよ。

ケンゴ:私はビオラという楽器について、少し補足したい。オーケストラの中で、ビオラが主旋律を任される場面は多くない。多くの時間、バイオリンとチェロのあいだの音域を埋めている。内声と呼ばれる部分だ。目立たないし、客席で「今のビオラがよかった」と言われることも稀だろう。だが内声が抜けた合奏は、和音が薄くなって成立しない。上と下だけで、音楽は完成しない。

アキ:うん、でもね。ケンゴさんの言うことは分かるんだけど、私はそこで止めたくないんだよ。「目立たないけど大事な役割です」って結論にすると、結局この人がずっと言われてきたことと同じになっちゃう。「あなたは聞き上手だから」「優しいから」って。縁の下の力持ちですね、で終わらせたくない。

ケンゴ:……アキの警戒はもっともだ。私の言い方は、確かにその轍(わだち)を踏みかけていた。訂正させてほしい。
私が言いたかったのは価値の話ではなく、位置の話だ。内声は、上と下のどちらにも属さない場所にある。だからこそ、両方の音を同時に聴いていないと弾けない。聴く能力がなければ座れない席なんだ。押しつけられて座れる場所ではない。

サキ:ああ、それなら分かります。この方が人の顔色を読んでしまうのも、地雷を踏まれた瞬間に気づいてしまうのも、同じ耳ですよね。周りの音が全部聞こえてしまう耳。それは職場では人に利用されて、練習場では人に踏まれた。でも、その耳そのものが悪いわけではないんです。使われる場所が悪かった。

アキ:そう、それ。同じ耳でも、勝手に開けられて中身を持っていかれるのと、自分で扉を開けて誰かの音を受け取るのとでは、まるで別のことなんだよね。「今日はちょっと無理です」って言えたのは、その扉に取っ手がついた日だったんだと思う。

サキ:声が震えていたと書かれていましたね。震えたまま言えたというのがいいんですよ。堂々と言えるようになってから言おうとすると、たいてい一生言えませんから。

シオン:一つ、知っていることがある。ビオラには決まった大きさがない。バイオリンには標準の寸法があるが、ビオラは奏者の体格や求める音に合わせて、大小さまざまな個体が作られてきた。理想の音を出すための理論上の寸法は、人間の腕には長すぎたのだという。だからこの楽器は最初から、妥協と選択の上に成り立っている。

アキ:……え、それ、ほんとに?

シオン:あなたが十五の春に手に取ったのは、そういう楽器だ。正解の形が存在せず、自分の体に合う大きさを自分で決めるしかない楽器。誰かがあなたの輪郭を決めようとするたび、あなたが息苦しくなったのは当然のことだったのかもしれない。あなたはもう十年以上前に、そうではない選び方を知っていたのだから。

自分に問いかけるロードマップ

  • 「今日はちょっと無理です」と言ったあと、実際に起きたことは何でしたか。三日間考えていたのは起きたことについてですか。それとも、起きなかったことについてですか。
  • あなたが誰にも頼まれずに選んだものを、ビオラ以外に思い出せますか。小さなもので構いません。通学路、飲み物の銘柄、寝る前の習慣。自分で選んだものの数だけ、あなたの輪郭は自分の手元にあります。
  • 見学の返事が来たとき、行くかどうかを決めるのはどの時間帯のあなたにしますか。
  • あなたの耳がよく聞こえてしまうことを、これまでは誰のために使ってきましたか。これからは、誰のために使いたいですか。

本日の羅針盤

四人の針は、最後まで一本になりませんでした。それでよかったのだと思います。答えが一つしかない場所に、あなたはもう長く座らされてきたからです。

第一章であなたは、「私はどうすればよかったのか」と尋ねました。エピローグに至って編集部から返せるものは、答えではなく事実の並べ替えだけです。

あなたは逃げてきたのではありません。上と下の音が両方聞こえてしまう耳を持ったまま、その耳を勝手に使われる場所から、一つずつ出てきたのです。そして四月の終わりに、自分の意思でケースを開け、五月に震える声で扉に取っ手をつけました。二小節と、ひとこと。それが今回の転機のすべてです。

小さいことと思われるかもしれません。ですが内声というのは、そもそも大きな音で鳴る場所ではありません。抜けてはじめて、なくなったことに気づかれる音です。あなたが半年かけて守ったのは、そういう種類のものでした。

隣町からの返事は、来るかもしれません。来ないかもしれません。どちらであっても、あなたの体に合う大きさを決めるのはこれまで通り、あなた自身です。

よりみちナビゲーター

人生の岐路で立ち止まったすべての人へ。答えを「断定」せず、あなた自身が納得できる「複数の選択肢」と「視点の切り替え方」を優しくお伝えする道案内チームです。

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