同じ誕生日の偶然が怖い?生まれ変わりと怨念の先にある「縁」の話

同じ日づけの向こう側 ― 第二章「悼みの行き場」

第一章のあと、わたしは祖母に思い切って聞いてみることにしました。

居間の座卓に、祖母が淹れたほうじ茶が二つ。湯気がまっすぐ立っていました。「おばあちゃん、伯父さんのこと、聞いてもいい?」と切り出したとき、祖母の手が急須の蓋を押さえたまま止まったのを覚えています。

祖母はしばらく黙ってから、ぽつりと言いました。「あの子は、名前だけ決めてあったんよ」と。生まれてくるはずだった日、産声を待っていたのに聞こえなかった。抱かせてももらえなかった。「顔もちゃんと見せてもらえんかった時代やから」と、祖母は窓の外を見ていました。

そしてわたしのほうを向いて、「あんたが同じ日に生まれたとき、ああ、帰ってきたんやな、と思うてしもうた」と。怨念とかそんな話ではなかったんです。祖母はただ、現世で抱けなかった子を六十年近く、どこにも下ろせずにいたのでした。

わたしがこわがっていたものの正体が、少しずつ形を変えていくのを感じました。

よりみちナビゲーターの対話

シオン:六十年、どこにも下ろせなかった。──祖母が抱えていたのは呪いではなく、行き場をなくした悼みだったのだね。

サキ:胸がいっぱいになりました。「顔もちゃんと見せてもらえんかった」って、当時はそういうものだったんですよね。死産の子を、まるで最初からいなかったことみたいに扱う時代があった。お母さんを悲しませないようにっていう周りの配慮が、かえってお祖母さんから「悼む時間」を奪ってしまったのかもしれません。

ケンゴ:そうだな。第一章で俺は「確率の問題だ」と言った。それは事実として撤回しない。だが、確率の話はこの居間のほうじ茶の前では、ほとんど意味を持たないということも認めなければならない。問題はもう「なぜ一致したか」ではなく、「祖母がその一致に、どれだけのものを託したか」に移っている。

サキ:ケンゴさん、変わりましたね。

ケンゴ:変わったわけじゃない。見るべき場所が動いただけだ。構造で言えばこうだ。──祖母には、悼みを完了させる「儀式」が、当時なかった。葬儀も、墓も、名前を呼ぶ習慣すら。その未完了があなたという「同じ日づけ」に流れ込んだ。あなたがこわかったのは外から来る怨念ではなく、誰かの未完了の感情を、知らないうちに肩代わりさせられていたからだ。

シオン:いい言葉ですね、ケンゴ。「肩代わり」。──だが、ここに一つ、静かな問いを置きたい。あなたはその肩代わりを、いやだと思っているだろうか。それともどこかで、引き受けてもいいと思い始めているだろうか。

サキ:……それはご本人にしか分からないことですね。でも私は、一つだけ言いたいことがあって。シオンさん、ケンゴさん。お祖母さんの悼みをこの方が一人で背負う必要はないんです。背負うのと、受け取るのは違いますから。

シオン:そのとおりだ、サキさん。受け取ることは、抱え込むことではない。──伯父さんの存在を「こわいもの」として遠ざけるのではなく、「いたかもしれない一人の人」として、暦のなかにそっと並べておく。それだけでこわさは悼みに変わり、悼みは縁に変わっていくのではないだろうか。

自分に問いかけるロードマップ

第二章では、向き合う相手が「見えないもの」から「祖母の心」へと近づいてきました。次の問いを携えてみてください。

  • 祖母の「帰ってきたんやな」という言葉を、あなたは重荷として聞きましたか。それともどこか、うれしいと感じる部分がほんの少しでもありましたか。
  • 伯父さんにもし名前があったとしたら。あなたはその名前を知りたいと思いますか。
  • 悼みを「受け取る」ことと「背負う」ことの違いをあなた自身の言葉にするとしたら、どんな表現になるでしょう。
  • この物語のなかで、いちばん救われてほしいのは誰でしょうか。祖母ですか、伯父さんですか、それともあなた自身でしょうか。

本日の羅針盤

第二章で見えてきたのは、こわさの正体が「怨念」ではなく「未完了の悼み」であったという転回です。ここでも見方を一つに束ねません。

ケンゴの見方では、これは感情の「肩代わり」という構造の問題であり、その荷を一度きちんと言葉にして、本来の持ち主である祖母の悲しみとして置き直すことが要です。
サキの見方では、悼みは受け取ってもいいけれど、一人で抱え込む必要はなく、家族で分け合えるものだということ。

シオンはこう申し上げます。──同じ日づけはあなたを縛る鎖ではなく、会えなかった人と祖母とあなたを、ゆるやかに結ぶ一本の線かもしれない。線を鎖と読むか、糸と読むか。その読み替えのなかにこそ、あなたが求めていた「前に進むきっかけ」がすでに芽吹いているのではないでしょうか。

具体的な一歩としては、伯父さんの名前を祖母に尋ねること、そしてできれば一度、その子のためにお墓に手を合わせ、名前を呼んであげることをお勧めします。
供養とは亡き人のためであると同時に、生きている人が悼みを下ろすための営みです。菩提寺のご住職に「死産した子の供養」について相談すれば、水子供養をはじめ、心を整える具体的な道筋を示してくださるはずです。

なお、祖母の言葉に触れたあと、かえって気持ちが揺れたり眠れなくなったりするようでしたら、無理をなさらないでください。家族の古い悲しみに触れる作業は、想像以上に体力を使います。必要なときは心療内科やカウンセリングなど専門機関の手も、遠慮なく借りてください。

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