境界知能と療育手帳──70歳で知った「自分の名前」と、制度の隙間で生きる手紙

第二章 ――紙の向こう側にあるもの

手帳を受け取ってから半年が過ぎた。私は結局、あの療育手帳をタンスの引き出しの奥にしまったまま、一度も使っていない。「使い方がわからない」というより、あれを差し出す場面を想像すると、体が固くなる。市役所の福祉課で若い職員が「これで交通機関の割引が受けられます」と教えてくれたが、バスの運転手に手帳を見せる自分を思い浮かべると、後ろに並ぶ人の視線がちらついて、結局いつも現金を払ってしまう。
工場を定年退職してから、警備の仕事に週三日出ている。同僚には手帳のことは言っていない。言えば楽になるのだろうが、七十を過ぎて「実は」と切り出す勇気が、どうしても出てこない。

よりみちナビゲーターの対話

ケンゴ: ここが制度を語るうえで、一番むずかしいところだと思う。手帳という道具は、持っているだけでは何も動かない。差し出して、初めて機能する。
この方は割引という具体的な利益があると分かっていながら、それでも現金を払ってしまう。私はこれを「もったいない」で片づけたくない。手帳を出すという行為には、「自分はこういう人間です」と公にする心理的なコストがかかる。そのコストが割引の金額より、重いと体が判断している。だとすれば、無理に使わせるよりまずどの場面なら差し出せそうか、負担の小さい順に並べてみる方が現実的だと思う。

サキ: ケンゴさんの、負担の小さい順にという考え方はとても大事だと思います。ですよね。私も人前で「できません」と言うことがどれだけ喉に詰まるか、想像がつくんです。この方が現金を払ってしまうのは、割引の百何十円より後ろに並ぶ人の視線のほうが痛いから。それは損得の計算ができていないんじゃなくて、痛みの計算はちゃんとできている、ということなんですよね。だからまず、「窓口で顔を合わせずに済む場面」──たとえば郵送で手続きできる医療費の助成とか、そういう誰の目にも触れない使い方から始めるのはどうでしょうか。

ケンゴ: それはいい着眼だと思う。人と対面しない支援から入る。理にかなっている。

サキ: ……ただ、一つだけ。私はこの方に、同僚に打ち明けろとは言えないんです。言えば楽になるというのは、たしかにその通りかもしれない。でも、七十を過ぎて職場で「実は」と切り出すことのしんどさを、外から「打ち明けたほうがいい」と勧めるのは少し無責任な気がして。生活が回っているなら、黙っていることも一つの立派な選択だと思うんです。

ケンゴ: サキの言うことも分かる。ただ、私はあえて別の見方も述べておきたい。黙っていることが今の安定を守るのはその通りだ。だが、この方は週三日の警備の仕事で、手順が重なると頭が白くなる特性を抱えている。もし将来、業務中にそれが原因のトラブルが起きたとき、何も伝えていない状態だと、本人が全責任を負わされかねない。打ち明けるかどうかではなく、「万一のときに自分を守る記録をどこかに残しておく」という発想を持っておくといい。信頼できる人一人にだけ話しておくというのも、そのための備えになる。

シオン: 手帳を引き出しの奥にしまう。その仕草を、私は否定的には見ない。人は自分の弱さを一枚の紙に閉じ込めて、必要なときだけ取り出したいのだ。使わないことは忘れたいことではない。いつでも取り出せる場所に置いてあるというだけで、人は少し息がしやすくなる。あなたはもう、その紙をどこにしまってあるか知っている。それは以前のあなたが持っていなかった、静かな安心の一つかもしれない。

自分に問いかけるロードマップ

  • 手帳を「使う場面」の中で、誰とも顔を合わせずに済むものはどれか。負担の小さい順に、頭の中で並べてみる。
  • 現金を払ってしまうとき、私が守っているのは「お金」ではなく「視線からの安全」だ。その安全は、今の私にとってどれくらい必要か。
  • 職場で黙っていることは今の私を守っている。その一方で、「万一のとき自分を守る備え」はどこかに残せているか。
  • 打ち明けるか隠すかの二択ではなく、「一人にだけ話す」という中間の道が、私にはあるだろうか。

本日の羅針盤

手帳は、持っているだけでは何も変えません。けれど、使わないことが失敗なのでもありません。ケンゴが示したように、それを差し出す行為には金額では測れない心理的コストがかかり、あなたの体はそのコストをちゃんと計算しています。サキが受け止めたように、視線の痛みを避けることは損得勘定の失敗ではなく、痛みへの正当な反応です。

だからこそ、いきなり人前で差し出す必要はありません。まずは誰の目にも触れない、郵送や事務手続きのような場面から、この紙を「試しに使ってみる」ことができます。そして職場のことは、打ち明けるか隠すかの二択ではなく、信頼できる一人にだけ伝えておくという中間の道もあります。それは告白ではなく、万一のときに自分を守るための備えです。

シオンが言うように、あなたはもうその紙のしまい場所を知っています。いつでも取り出せると分かっていること自体が、以前にはなかった安心です。急いで使いこなす必要はありません。あなたのペースで、一つずつでかまいません。

障害者手帳で利用できる支援の範囲や、郵送で手続き可能なサービスについては、お住まいの自治体の障害福祉窓口や基幹相談支援センターで、具体的に確認することをおすすめします。就労上の配慮については、地域の障害者就業・生活支援センターなどの専門機関も相談先になります。

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