境界知能と療育手帳──70歳で知った「自分の名前」と、制度の隙間で生きる手紙

第三章 ――「できないこと」を数えない日

冬に入り、朝の冷え込みが厳しくなった。警備の仕事に出る朝、私は前の晩に制服を玄関に掛け、翌日の持ち物を確認する。手順が三つ以上重なると頭が白くなる私にとって、これは長い年月をかけて身につけた、たった一つの防御策だ。
ある夜、テレビをつけると若い頃に流行った歌が流れていた。妻がよく口ずさんでいた曲だった。私はそのとき、ふと思った。自分は覚えるのが人より遅い。それは五十年変わらなかった。でも、この曲のメロディーだけは、四十年経った今もそらんじられる。忘れなかったものもちゃんとあるのだ。「できないこと」ばかりを数えて生きてきたけれど、数えていなかった側に何かがあるのかもしれない。

よりみちナビゲーターの対話

サキ: この一節を読んで、私、少し胸が熱くなったんです。ですよね。前の晩に制服を掛けておく。持ち物を並べておく。この方はそれを「防御策」とおっしゃっているけれど、私にはこれが長年かけて磨き上げた、その人だけの技術に見えるんです。誰にも教わらず、自分の頭の癖を自分で理解して、それに合わせた段取りを作った。これってすごいことなんですよね。

ケンゴ: 私も同じことを感じた。ここははっきり言葉にしておきたいと思う。この方がやっているのは、専門的には「環境調整」とか「代償方略」と呼ばれる、極めて理にかなった対処だ。
頭の中で処理しきれないものを、外に出しておく。前の晩のうちに、玄関という「場所」に手順を預けておく。これは記憶や段取りが苦手な人が取りうる最も有効な戦略の一つで、支援の専門家が教えることを、この方は独学で身につけている。
境界知能という言葉に、私は「足りない」という響きを感じさせたくない。この方は足りない分をどう補うかを、自力で組み立ててきた人だ。

サキ: ケンゴさんが「独学で身につけた」と言ってくださったの、本当にその通りだと思います。……ただ、一つだけ。

ケンゴ: どうぞ。

サキ: その「技術」をこの方がずっと一人で背負ってきたことが、私は少し気がかりなんです。防御策を作れるのは強さだけれど、防御し続けなければならなかった、ということでもある。もう少しだけ、この方の肩から荷物を降ろせる場所があってもいいんじゃないでしょうか。段取りを一緒に組んでくれる人が、一人でもいたら。

ケンゴ: ……サキの言うことも分かる。ただ、私はここであえて逆のことも置いておきたい。荷物を降ろすのはいいことだ。だが、この方が長年かけて作った段取りは、他人に渡した瞬間にこの方の手から離れる。誰かに頼ることと自分の技術を手放すことは、別のものだ。だから私は、支援を「代わりにやってもらうもの」ではなく、「この方の技術を、もっと楽に回すための道具」として使ってほしいと思う。主役はあくまでこの方自身だ。

シオン: 忘れなかったものがちゃんとある。あなたがテレビの前で気づいたことは、どんな支援の言葉よりも深いところに触れている。人は失われたものを数えるのは得意だが、残っているものを数えるのはなぜか下手だ。四十年前のメロディーを、あなたはまだ手放していない。覚えるのが遅いということは、一度覚えたものを長く離さないということでもあるのかもしれない。速さで測れば遅い。だが深さで測れば、あなたはずいぶん遠くまで来ている。

自分に問いかけるロードマップ

  • 私が「できないこと」として数えてきたものの隣に、それを補うために編み出した「工夫」がある。その工夫を、私はいくつ持っているだろうか。
  • 前の晩に段取りを整えるという私のやり方は、誰かに教わったものではない。自力で作ったこの技術を、私は誇っていいのではないか。
  • 一人で背負ってきた段取りを「手放す」のではなく、「一緒に回してもらう」形で誰かに預けられる部分はあるか。
  • 覚えるのは遅いが、忘れないものもある。私が長く離さずに持っているものは何だろうか。

本日の羅針盤

「できないこと」を数える人生は、いつのまにか自分の輪郭をその欠けた部分だけで描いてしまいます。けれどケンゴが言葉にしたように、あなたが前の晩に段取りを整えるやり方は、専門家が教える「環境調整」そのものであり、あなたはそれを独学で身につけてきました。足りない分をどう補うかを、自力で組み立ててきた人です。それは「足りない」ではなく、確かな技術です。

サキが気にかけたように、その技術を一人で背負い続けてきたことには、そろそろ肩の荷を降ろす場所があっていい。
ただしケンゴが添えたように、それは技術を手放すことではなく、あなたの工夫をもっと楽に回すために、道具や人の手を借りるということです。主役はこれからも、あなた自身です。

そしてシオンが照らしたように、覚えるのが遅いということは、一度手にしたものを長く離さないということでもあります。四十年前のメロディーを今もそらんじられるあなたは、速さでは測れない深さをすでに生きてきました。「できないこと」の隣に置き去りにしてきた数えていなかったものを、これから少しずつ数えてみてください。

段取りや環境調整の工夫を専門家と一緒に整えたい場合は、地域の障害者就業・生活支援センターや基幹相談支援センターに相談することで、あなたのやり方を活かしながら支える方法を一緒に探すことができます。一人で抱え込む必要はありません。

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