番外編:明日、最初に開く一つの引き出し
三章分の言葉を読み終えて、ノートを閉じる。
言われていることはわかる。ただ、月曜の朝、自分の手が最初にどこへ伸びるのか、まだ、はっきりしない。
よりみちナビゲーターの対話
ケンゴ:三章を通じて、私たちは方針の話をしてきた。今回は実務の話だ。読み終わったあと、月曜の朝に「で、最初に何をするんだったか」とならないように、引き出しを三つに整理しておきたい。労働相談・転職活動・医療連携。この順で話す。
サキ:実務の話、ありがたいです。読み物として終わらせず、手が動く形にしておくのは大事ですよね。
引き出し一:労働相談──「辞める準備」ではなく「自分を守る記録」として
ケンゴ:労働相談と聞くと「辞めるための交渉」を想像しがちだが、まず違う。これは「自分の労働を、自分で証拠化しておく」作業だ。辞めるかどうかと関係なく、いまから始めていい。
やること(順番に):
一、記録を取り始める。今日から、スマートフォンのメモ帳でいい。日付・始業時刻・終業時刻・中抜け休憩の時間帯・休憩中の呼び出しや買い出しの内容と所要時間、これだけを淡々と書く。給与明細とシフト表は毎月写真に撮ってクラウド(GoogleドライブでもiCloudでも)に保存する。職場では絶対に開かない。家でだけ触る。
二、まず「総合労働相談コーナー」に電話する。各都道府県の労働局・労働基準監督署に設置されている、厚生労働省の無料・匿名相談窓口だ。「労働基準監督署 総合労働相談コーナー ○○県」で検索すれば、最寄りの番号が出る。電話で「残業代が出ていない」「休憩中の呼び出しがある」と現状を話すだけで、専門の相談員が自分のケースが法的にどう扱われるか、次にどう動けばいいかを教えてくれる。
三、相談時に伝えることを、事前にメモにしておく。雇用形態(正社員)、勤続期間(七か月)、就業規則の有無、残業代の支給有無、休憩の実態、給与明細の保管状況。これだけでいい。
サキ:「電話するの、ハードル高い」と感じる方、多いんですよね。それで言うと、各都道府県労働局の公式サイトにはメールでの相談フォームも用意されていることが多いです。電話が難しい日は、文章で送るだけでも第一歩としては十分。
ケンゴ:補足ありがとう。電話か、メールか、自分の体調と相談しながら選べばいい。重要なのは「相談した」という事実を一つ作ること。そこから先は、相談員が次の手を示してくれる。
引き出し二:転職活動──「動きながら見る」を技術にする
ケンゴ:転職活動は、「辞める決意」がなくても始めていい。むしろ決意する前に始めるほうが、判断材料が増えて健全だ。
やること(順番に):
一、転職エージェントに、二社だけ登録する。一社だと担当者の質に左右されすぎる、三社以上だと連絡対応で消耗する。二社がちょうどいい。総合型(リクルートエージェント、doda、マイナビエージェントなど大手)を一社、自分の特性に合いそうな専門系(事務職特化、IT特化、地方特化など)を一社。登録自体は無料で、面談はオンラインで完結する。
二、登録時の希望条件を、正直に書く。「対人突発対応が少ない仕事」「手順が明確な仕事」「残業少なめ」と、はっきり書いていい。エージェントはこちらのカードを見て、初めて適切な求人を出してくる。見栄を張ると、また同じ消耗を繰り返す職場を紹介される。
三、最初の面談で必ず聞くことを、三つだけ決めておく。
- 自分の経験(ホテルフロント七か月+倉庫経験)で、応募可能な職種の幅
- 希望条件に近い求人の、おおよその給与レンジ
- 応募から内定までにかかる、現実的な期間
四、応募はすぐにしなくていい。「市場を知る」段階を、まず一か月確保する。
サキ:面接で「いまの職場の何が辛かったか」を聞かれたとき、正直に言うべきか迷う方が多いですよね。一つだけお伝えすると、「対人不安があり、心療内科に通院している」ことを面接で開示するかどうかは応募先によります。法的には開示義務はありません。ただ、入社後に勤怠や業務調整で配慮が必要になりそうな場合は、内定後・入社前の段階で人事に伝えるという選択肢もあります。
ケンゴ:正解は一つではない。エージェントの担当者に「自分は通院中だが、応募先にどの段階でどこまで伝えるべきか」を率直に相談していい。これは恥ずかしいことではなく、戦略の問題だ。
サキ:それと、「障害者雇用」という選択肢もあるんです。精神障害者保健福祉手帳を取得されている場合、または取得を検討する場合に、障害者雇用枠での就労という道があります。給与水準は一般枠より下がる傾向はありますが、業務内容や勤務時間に最初から配慮が組み込まれているのが特徴です。主治医に「自分のケースで手帳取得が現実的かどうか」を一度聞いてみるのは、選択肢を広げるうえで意味があります。
ケンゴ:手帳の有無に関わらず、就労移行支援事業所や各自治体の若者サポートステーション(サポステ)など、無料で使える就労支援機関もある。エージェントだけが転職活動の場ではない。
引き出し三:医療との連携──主治医を「労働の相談相手」にする
ケンゴ:ここは私より、サキさんに譲ったほうがいい話だ。
サキ:はい。心療内科に通院されている方が主治医との時間を、「症状の報告と薬の調整」だけで終わらせてしまうのはもったいないんです。先生はあなたの労働環境の影響も含め診ている専門家ですから。
次回の通院で、伝えてみてほしいこと:
一、いまの労働環境の具体:手取り十四万、シフト不規則、中抜け休憩中も呼び出し、残業代未払い、教育体制曖昧、突発対応が頻繁。一度、口頭でも紙にまとめてでもいい、先生に渡してみる。
二、転職を検討していること:そして、「単純作業中心の働き方が自分に合っていると感じている」という自己認識も伝える。先生は医学的な観点から、その判断をどう見るかを返してくれる。
三、聞いてみたいこと:
- いまの薬の量と種類は、いまの環境を続ける前提なのか、変える前提なのか
- 仮に休職する場合、診断書を書いてもらえる状況にあるか
- 精神障害者保健福祉手帳の取得は、自分のケースで現実的な選択肢か
- 転職活動を進めるうえで、医療側から見て注意すべき点はあるか
サキ:診察時間は限られているので、聞きたいことは紙に三つだけ書いて持っていく。これだけで診察の質が変わります。
ケンゴ:それから、職場との関係で「休職」という選択肢も、頭の片隅に置いておいていい。すぐ転職に動くのが体力的に厳しいと判断された場合、診断書をもとに休職し、傷病手当金(健康保険組合に加入していれば、給与の約三分の二が最長一年半支給される制度)を受けながら、転職活動を進めるという段取りもありうる。これは、主治医と勤務先の就業規則の両方を確認しないと進められない話だが、選択肢として知っておいてほしい。
シオン:……三つの引き出しをケンゴが整理し、サキが温度を加えた。私から最後に一つだけ。
引き出しは、開ける順番に意味はない。労働相談から始めてもいい。転職エージェント登録から始めてもいい。次の通院で主治医に話すことから始めてもいい。
ただ「今週、一つだけ開ける」と決めてほしい。三つ全部を同時に開けようとすると人はたいてい、一つも開けられないまま週末を迎える。一つ開けば次の引き出しは、思っているより軽く開く。
自分に問いかけるロードマップ──今週のチェックリスト
封筒に入れるつもりで明日からの一週間、一つだけ選んでください。
- 今週中に、シフト表と直近の給与明細を写真に撮って、クラウドに保存する
- 今週中に、「総合労働相談コーナー ○○県」を検索して、電話番号かメールフォームのURLをスマートフォンにブックマークする
- 今週中に、転職エージェント一社の登録ページを開く(登録までいけたら、それは大きな一歩)
- 次回の通院日までに、主治医に伝えたいことを三つ、紙に書いておく
- 「障害者雇用」「就労移行支援」「若者サポートステーション」のいずれかについて、十分だけ調べてみる
全部やる必要はありません。一つ動けば、それでこの週は十分です。
本日の羅針盤──連載のしめくくりに
四章にわたってお付き合いいただきました。
第一章で私たちは、「正社員に向いていないのではなく、この職場の条件があなたの特性に対して厳しすぎる可能性が高い」と切り分けました。
第二章で、「動きながら材料を集める」という方針を立てました。
第三章で「五年後は描けなくていい、動いてから見えてくる」と長期の視点を置きました。そして今回、その方針を「明日、最初に開く一つの引き出し」に落としました。
最後に編集部から、あなたに残したい言葉を一つだけ選ぶとしたらこれになります。
あなたはすでに七か月、薬を飲みながら毎朝あの制服に袖を通してきた。それは誰にでもできることではありません。
「向いていない」と感じる場所で七か月持ちこたえた事実は、弱いからではなく、あなたが粘り強いことの証明です。その粘り強さをこれからは「合わない場所で耐えること」ではなく、「合う場所を探すこと」のほうにゆっくり振り向けていってください。
革靴の底は、すり減ります。それでもすり減った革靴で歩いた距離は、消えません。
あなたの次の一歩が、自分の輪郭を保てる方向へ静かに伸びていきますように。
なお、本連載で繰り返しご案内したとおり、労働条件のご相談は各都道府県労働局の総合労働相談コーナー(無料・匿名)、心身の不調については主治医、就労に関する公的支援は最寄りの若者サポートステーションや就労移行支援事業所が、それぞれ無料でご相談に応じてくれます。一人で抱え込まれず、必要なときに必要な引き出しを開けていただければと思います。
『感情の羅針盤』編集部より、心からのエールを送ります。




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