第三章:半年後のあなたへ──訴えても、訴えなくても、残るもの
想像してみる。半年後の、ある夜のこと。
新しいバイト先からの帰り道、コンビニでおにぎりを二つ買ってアパートに戻る。電気をつけて、コートを脱いで、ふと冷蔵庫を開ける。卵が三つ、味噌の容器、昨日の残りの煮物。あの頃、開けるのが怖かった冷蔵庫に、今は普通に手が伸びている。
通帳の残高は、少しずつだが増えてきた。弁護士費用として目標にしていた金額に、もう少しで届く。スマホには、三ヶ月前と五ヶ月前に自分で設定したリマインダーが、ちゃんと届いていた。日記アプリには、二ヶ月前のあの日から書き続けた記録が淡々と並んでいる。
──さて、私は今、どうしたいんだろう。
訴える、という選択肢はまだ手元にある。同時に、訴えない、という選択肢も手元にある。半年前の私は、「訴える」一択しか見えていなかった。今の私は、両方の重さを量れるところまで来た。それだけでも、ずいぶん遠くまで歩いてきたのかもしれない。
サキ:半年後のあなたが、半年前のあなたを守るんですよ
「ここまでお話を聞いてきて、私が一番お伝えしたいのは、これなんです。半年後のあなたが、半年前のあなたを守る。この感覚、覚えておいてほしいなって」
「訴訟ってどうしても、『加害者と被害者の対決』みたいな構図で語られがちですよね。でも、実際にその場に立つあなたを支えるのは、相手への怒りじゃないんです。半年間、自分の生活をちゃんと立て直してきたその積み重ねのほうなんですよ」
「私もフリーランスで未払いに遭ったとき、結局その案件は弁護士を立てずに、内容証明一本で解決したんです。でも、そこに至るまでの数ヶ月、私は別の仕事を着実にこなして生活費を確保していました。あの数ヶ月がなかったら、私は焦って相手に有利な条件で手を打っていたと思うんです」
「だから半年後のあなたが『訴える』を選んでも、『訴えない』を選んでも、どちらでも構わないと思うんです。大事なのはその判断を、追い詰められた状態じゃなく、自分の足で立った状態でできること。それ自体がもう一つの勝ち方なんですよね」
ケンゴ:最後に、現実的な留意点を三つ伝えておく
「サキの言うことに、ほとんど付け加えることはない。だが、最後にもう一度、現実の手綱を握ってもらうために三つだけ確認させてくれ」
「一つ目。『今の会社を保留にする』という状態は、法的にはグレーだ。在籍したまま別の会社で働く場合、就業規則の兼業規定や雇用保険の取り扱いなどで思わぬ問題が出ることがある。新しいバイトを始める前にできれば一度、労働組合か法テラスで状況を整理してもらうことを勧める。無料相談で十分だ」
「二つ目。賃金請求権の時効は、現行法では当面3年。半年後に動く分には問題ないが、『そのうち』を続けると、本当に取れなくなる。半年というタイムラインは、自分との約束として守ったほうがいい」
「三つ目。訴えるか訴えないかは、半年後の自分が決めればいい。だが、その判断材料を揃えておくのは今のあなたの仕事だ。証拠、記録、感情のメモ。これらは、半年後のあなたへの『申し送り書』だ。手を抜くな。あなたが今書いている一行が、半年後のあなたを助ける」
気づき:「闘う」と「生きる」は、同じ動詞かもしれない
私たちは闘うことと生きることを、別の動詞だと思いがちだ。「闘うために生活を犠牲にする」「生きるために闘いを諦める」。どちらかを選ばなければならないように感じる。
けれどこの相談者の半年が教えてくれるのは、その二つは実は同じ動詞だということだ。生活を立て直すことが、闘うための準備になる。怒りを記録に変えることが、自分を生かす行為になる。新しいバイト先で誰かに「ありがとう」と言われることが、あの会社に奪われかけた尊厳を取り戻す道になる。
訴訟はゴールではない。手段の一つだ。本当のゴールは、半年前のあなたが失いかけた「自分の人生の主導権」を自分の手に取り戻すこと。それさえ達成できれば訴えるという選択は、その通過点になる。
三章を通じての結論
あなたの「半年後に訴える」という計画は、戦略として成立しています。そのうえで、この三章でお伝えしてきたことを最後にまとめます。
第一章:戦略は正しい。証拠保全と在籍状態の整理を、今のうちに。
第二章:半年を助走にするため、記録・リマインダー・動機の言語化を。
第三章:半年後、訴えても訴えなくても、自分の足で立った状態で判断できることが本当の勝利。
そして、何度でも繰り返します。この期間に心身の不調を感じたら、訴訟の準備よりも先に医療機関や公的な相談窓口を頼ってください。あなたの体と心が、闘いより先にあります。あなたの人生は会社との一件よりも、ずっと長く、ずっと広いものです。
半年後のあなたが、今のあなたを誇りに思えますように。
困ったときの相談窓口(最終まとめ)
- 法テラス(日本司法支援センター):0570-078374/民事法律扶助制度あり
- 総合労働相談コーナー(各都道府県労働局):無料・予約不要
- 個人加盟ユニオン:一人でも加入でき、団体交渉という選択肢を持てる
- こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556
- よりそいホットライン:0120-279-338(24時間・無料)



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