エピローグ 名前の理由は思い出せないまま
どこで意識が切れたのか、自分でもわからない。腕は動かせなかった。ソラの体が乗っていたからだ。その重さだけは、眠っていても消えなかった。
夢を見た。長い夢ではなかったと思う。
舗装の切れた道を、男の子が歩いていた。小学校の低学年くらいだろうか。半袖のシャツが背中で少しめくれていて、履いているサンダルがぱたぱた鳴っていた。私はその後ろを歩いていた。追いつこうと思えば追いつける距離なのに、なぜかそのままの距離で歩いていた。
男の子は一度も振り返らなかった。何も言わなかった。私も声をかけなかった。かけなくていいと、なぜか思っていた。道の先に何があるのかは見えなかった。ただ、日が高くて、どこかで水を撒いた匂いがしていた。
それだけの夢だ。
目が覚めたとき、部屋はまだ薄暗かった。エアコンが低い音を立てていた。外はもう蝉が鳴き始めていて、うちの前の電柱のあたりから聞こえていた。
腕の中のソラを見た。
何も変わっていなかった。呼吸は浅いままで、口は少し開いていて、耳の先は相変わらず冷たかった。よくなったわけでも、悪くなったわけでもない。三日前から続いている、あの姿のままだ。
それなのに私の中の何かが、静かになっていた。
ゆうべまで、頭の中で同じ問いがぐるぐる回っていた。何をしてやればいいのか。この子は何を望んでいるのか。私は自分のためにこの子を抱えているんじゃないか。その全部が消えたわけではない。ただ回るのをやめて、どこかに座り込んだような感じがした。
あの日、なぜこの子を拾って帰ったのか、いま考えても思い出せない。資材置き場の裏で鳴いている猫なんて、それまでにも何度か見ていたはずだ。あの日に限って、なぜ段ボールを探しに戻ったのか。理由が出てこない。
ソラという名前も同じだ。空が晴れていたのか、雨だったのかさえ覚えていない。連れて帰った晩、ちくわを小さくちぎってやったことは覚えているのに、なぜその名前にしたのかは出てこない。十五年、毎日呼んできた名前なのに。
答えは何ひとつ出なかった。それでも心は、静かなままだった。
私はそっと腕を抜いて、たたんだタオルをかわりに頭の下に入れた。ソラは何の反応もしなかった。冷房の風が当たらないよう、風向きをもう一段上に変えた。
それから台所に立って、麦茶を一杯飲んだ。コップは五つも六つも溜まっていた。
壁の時計は八時を回っている。病院は九時からだ。私は椅子に座って、開くのを待つ。
九時ちょうどに電話をかけた。
「十五歳のキジトラの、ソラの飼い主です。おとといの朝に、体が硬くなって数十秒動かないことがありました。それきり同じことは起きていませんが、夜になると手足を宙でもがくように動かします。三日前からほとんど動きません」
声は震えていない。自分でも意外なくらい、順番どおりに話せた。
「いま、この子の苦しさを取ってやれる方法があるかどうか、教えてください」
電話の向こうで、先生が何かをメモする音がした。私は受話器を持ったまま、ベッドの上のソラを見ていた。窓の外の蝉の声が、一段大きくなった。
よりみちナビゲーターの対話
サキ:電話をかけられましたね。それもこちらでお伝えした聞き方のとおりに。震えなかったというのは、あなたが強かったからではなくて、たぶんもう決めていたからだと思います。決めていたことに、ご自分で気づいていなかっただけで。
ケンゴ:私が三章にわたって言い続けたことを、この方は一晩で実行された。付け加えることは何もない。ひとつだけ言うなら、電話の内容がどうであれ、その朝にかけたという事実は残る。あとから自分を責める材料が、ひとつ減った。
サキ:ええ。それとコップを洗わずに麦茶を飲んだところが、私はいちばん好きです。生活はそういう順番で戻ってきますから。
シオン:なぜ拾ったのか、なぜその名前だったのか。答えは出なかったという。私はそれでよかったと思っている。理由のあるものは、理由がなくなれば終わる。理由を思い出せないものだけが、十五年続く。
夢の中の子は、一度も振り返らなかった。追いつけない距離ではなかったのに、この人は追いつこうとしなかった。それはこの人がもう、知っていたということかもしれない。先を歩かせてやるという形の付き添い方があることを。
サキ:先生から何と言われるかは、まだわかりません。痛みを取る方法があると言われるかもしれないし、来ていただいたほうがいいと言われるかもしれない。どちらであっても、そこから先はあなたと先生とソラさんの三人で決めていくことです。私たちはここまでです。
腕を抜いてタオルを入れた手つきを覚えておいてください。それこそがあなたとソラの、十五年です。



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