第三章 決めるという行為の、置き
よりみちナビゲーターの対話
サキ:三つめのご質問です。安楽死を考えるべきか。これは私たちが代わりに答えを出してはいけない問いです。ただ考えるための道筋だけは、はっきりお伝えできます。
ケンゴ:私から順序を示す。日本では動物の安楽死は、獣医師が診察のうえで行う医療行為だ。だから最初にすることは、決断ではなく相談だ。「もしそういう選択を考える場合、判断の目安と今この子の苦しさをやわらげる方法を教えてください」。この言い方で聞けば、獣医師は答えを持っている。
そして判断の軸は、私は三つだと思う。第一に、痛みや苦しさがあるか。第二に、それを処置でやわらげられるか。第三に、やわらげられないならあとどれくらい続くと見込まれるか。この三つはすべて、獣医師の診察がなければ埋まらない。あなたが一人で埋める欄ではない。
サキ:ケンゴさんの三つは、そのとおりだと思います。ただ私はもうひとつ、欄を足したいんです。それは決断した人が、明日の朝からも生きていくということです。
安楽死を選んだ方が「あの子を殺したのは自分だ」と何年も繰り返す姿を、私は見たことがあります。選ばなかった方が「もっと早く楽にしてあげられたのに」と繰り返す姿も、同じくらい見ました。
どちらを選んでも後悔が出るなら、その後悔を抱えて暮らしていける形はどちらかというところまで含めて考えないと、決められません。
ケンゴ:それは反対の意見なのだろうか。私には判断を先延ばしにする理由になりかねないと聞こえた。苦しさが取れないまま時間が過ぎることは、猫の側にとっては不利益だ。飼い主の心の準備を待つ時間を、動物が肩代わりする構図になる。
サキ:先延ばしにしましょうとは言っていません。同じ日に、両方を天秤に載せてくださいと言っているんです。ケンゴさんの三つの軸で猫の苦しさを測る。同時に、自分が何をしたら納得できるのかを言葉にしておく。この二つは、片方だけでは決められないと思います。「痛みが取れないなら楽にする方を選ぶ、取れるなら最後まで家で看取る」。そう先に決めておけば、当日に迷わずに済みます。
シオン:ふたりとも、同じものを守ろうとして違う方向を向いている。私はどちらの側にも立たない。ただ、この方が書いた言葉を思い出したい。「辛い状態を見ていることしかできず」。見ているというのは、何もしないことだろうか。十五年前の資材置き場の裏で、この人は鳴き声を見つけた。見て、段ボールに入れて連れ帰った。見ることからすべてが始まっている。最後まで見ていられる人のところで終われるなら、それは悪くない終わり方かもしれない。
ケンゴ:……ところで電話は、今日のうちにしていただきたい。決断のためではない。今この子の苦しさを取れるかどうかを聞くためだ。それを聞かずに看取りに入るのは、私は勧めない。
サキ:ええ。それとこの時期のことなので、ひとつだけ現実的な話をさせてください。夏はそのあとの時間の猶予が短くなります。もしもの時に連絡する動物霊園やお寺の名前と電話番号を、今のうちに一つだけ調べて、紙に書いて冷蔵庫に貼っておいてください。縁起でもないと思われるかもしれません。でも、その日に泣きながら検索するよりはるかに楽です。準備をしたからといって、その日が早く来るわけではありません。
サキ:そしてもし、看取ったあとのことを言わせていただけるなら。その日が来たら、たぶんあなたはまず毛布を洗って、ベランダに干すと思います。溜まった麦茶のコップを洗って、エアコンをいつもの温度に戻して、夜勤に出る。そういう順番で日常が戻ってきます。
九月になって蝉の声が少なくなってきたある日、ふと「部屋が静かすぎる」と感じることがあります。そのとき、「日常が戻ってくるのが早すぎるのではないか」「自分は薄情なのではないか」と思っても、それは決してあなたのせいではありません。生活はもともと、そういうふうにできています。
自分に問いかけるロードマップ
- 獣医師に「今の苦しさをやわらげる方法はありますか」と聞いたか。まだならいつ聞くか。
- 自分にとって、どういう条件が満たされたら安楽死を考えるのか。その条件を事前に、一行で書き出せるか。
- 何をしたら「やれるだけやった」と思えるのか。逆に、何をしなかったら悔いが残るのか。
- ソラが去ったあとの部屋を、想像したことがあるか。想像するのが怖いのは、当たり前だと知っているか。
- 三日後の自分に誰か一人でも、この話を聞いてもらえる相手がいるか。
本日の羅針盤
三つの視座を、そのまま残します。
ケンゴの羅針盤は、「決断より先に相談」。痛みがあるか、それをやわらげられるか、続く見込みはどれくらいか。この三つを診察で埋める。それが済むまで、あなたが自分を裁く必要はありません。
サキの羅針盤は、「決めた自分が、明日も暮らしていける形を選ぶ」。どちらを選んでも後悔は残るかもしれません。だから抱えて歩ける後悔を選ぶ。そのために、条件を先に一行で書いておく。
シオンの羅針盤は、「見ていることは、何もしないことではない」。十五年前、あなたはこの子の鳴き声を見つけた人でした。最後まで同じことをしているだけです。
三つのうち、今夜あなたの手が届くのはケンゴのものです。夏の終わりの、静かになった部屋で必要になるのはサキのものです。そしていつか思い出すのは、シオンのものだと思います。
安楽死の判断、痛みをやわらげる処置、症状の見立ては、すべて診察した獣医師の領域です。かかりつけの動物病院、または夜間・救急対応の動物病院へ、今日のうちにご連絡ください。看取ったあとに眠れない、食べられない、涙が止まらないといった状態が二週間以上続く場合は、心療内科などの医療機関、あるいは自治体や獣医師会が案内しているペットロスの相談窓口の利用もご検討ください。



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