涙腺というやっかいな才能 ―― 泣き虫のまま、還暦が見えてきた
私は五十九歳、地方都市で古い時計の修理工房をひとりで営む男だ。妻は五年前に先立った。この歳になっても、私はよく泣く。困ったものだ。若い頃からずっとそうで、原因はよくわからない。
ラジオから流れる古い歌謡曲の間奏で、修理台の前でぽろぽろやっている。孫が正月に来て、帰り際に玄関先で「じいじ、また来るね」と手を振る、あのときも決まって目頭が熱くなる。またすぐ会えるとわかっているのに、だ。
思えば子どもの頃からそうだった。母方の農家に盆と正月に泊まりに行き、帰りの軽トラの荷台に乗せられて、祖母が畑の脇から見えなくなるまで手を振ってくれる、あの土埃の立つ砂利道で、私は毎回声を上げて泣いていた。
近所の子には「男のくせに」とからかわれた。それでも直らなかった。周りは「気の優しい人だ」と言ってくれる。ありがたい。だが、六十を過ぎてもこれでいいのかと時々思う。私はどこか、おかしいのだろうか。
よりみちナビゲーターの対話
アキ:これ読んでね、私、ちょっと泣きそうになっちゃった。おかしいなんて、とんでもないよ。時計の修理台で歌謡曲の間奏に泣くって、私、その光景がもう好き。あのね、涙が出るってことは心のどこかがちゃんと動いてるってことなんだよ。錆びついてない証拠。五十九歳で、まだ砂利道の土埃の匂いを思い出して泣ける人がどうしておかしいの。むしろそういう人にこそ直してほしいよ、大事な時計。
ケンゴ:アキの言うことは分かる。涙は気質であって欠陥ではない、というのに私も同意だ。ただこの方が本当に気にしているのは、「泣くこと」そのものではないと思う。「男のくせに」とからかわれた記憶が、六十年ずっと棘のように残っている。
問題は涙ではなく、涙を許さなかった外側の規範のほうだ。私は氷河期に社会に出て、感情を殺して働くのが当たり前という空気を吸ってきた世代だ。だからこそ言えるが、この方が直すべきものは何もない。直すべきだったのはこの方に、「男のくせに」と言った世界のほうだ。
アキ:……ケンゴさん、それ、その通りだ。うん、そこはすごく分かる。
ケンゴ:まだ会えるのに別れ際に泣く、というのも構造で見れば筋が通っている。この方は「今この瞬間の別れ」を、次の再会で相殺していない。一回一回を独立した、二度と戻らない時間と感じている。それは損な性分に見えて、実は──。
シオン:実は、時間を惜しむ人の目なのかもしれない。ケンゴの言う通りだ。
私はこう思う。祖母が見えなくなるまで手を振ってくれた、あの砂利道。そのとき幼いあなたが泣いていたのは、別れが悲しかったからではない。その時間があまりにも満ちていたから、こぼれたのだと思う。器が小さいから涙がこぼれるのではない。中身が多すぎるから、あふれるのだ。
アキ:……なんかもう、私、また泣きそう。
シオン:孫が「また来るね」と手を振る。そこであなたが流す涙は、少年時代の砂利道と静かにつながっているのではないか。あなたはずっと、同じ器で世界を受け取り続けている。それを人は「変わらない人」と呼ぶのかもしれない。
自分に問いかけるロードマップ
- 「男のくせに」という言葉は、本当に自分の内側から出た評価だろうか。それとも、幼い頃に外から刺さったまま、抜かずに持ち歩いている棘だろうか。
- 涙が出る瞬間を思い返してみると、そこには共通して「二度と戻らない、満ちた時間」への感度があるのではないか。
- もし親しい友人が同じ相談を持ってきたら、自分はその人に「おかしい」と言うだろうか。それとも「羨ましい」と言うだろうか。
本日の羅針盤
「問題ないでしょうか」という問いに、私たちの答えは揺らぎません。問題など何ひとつありません。
アキは、涙は心が錆びていない証だと言いました。
ケンゴは、直すべきは涙ではなく、それを許さなかった世界の側だと言いました。
シオンは、あふれるのは器が小さいからではなく、中身が多すぎるからだと言いました。
三つの視座は、ひとつのことを指しています。あなたの涙は五十九年かけて磨き上げてきた、感受性という才能の現れだということです。時計の細かな歯車を直せる指先の繊細さと、歌謡曲の間奏で泣ける心の繊細さは、おそらく地続きです。片方だけを恥じる必要はありません。
なお、涙もろさそのものは気質であり、案ずるべきものではありません。ただ、もし涙が止まらず日常生活に支障が出る、気分の落ち込みが長く続くといった状態が重なる場合には、心の疲れのサインである可能性もあります。そのときは専門機関への相談もご検討ください。今のあなたの涙は、才能の側の涙だと、私たちは受け取りました。





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