涙腺というやっかいな才能 ―― エピローグ:泣けなかったあの夜のこと
涸れるはずの泉が、涸れなかった夜
生まれてこのかた、間奏の旋律で泣き、孫の見送りで泣き、砂利道の別れで泣いてきた男がたったひとつ、涙を流せなかった夜があります。
妻を見送った、あの夜です。
アキ:……これ読んで、私、しばらく何も言えなかった。いちばん泣くはずの人が、いちばん泣くべき夜に泣けなかったんだね。
シオン:涙もろい人ほど、本当の悲しみの前では泉が凍りつくことがある。あまりに深いところに触れると、心はまず自分を守るために感覚を閉じるのだ。日常のさざ波にはあれほど素直に応えていた泉が――大きな喪失を前にして動けなくなる。それは壊れたのではない。凍ったのだ。
ケンゴ:私にも覚えがある。本当に大事な人を亡くしたとき、人は案外、事務的に動けてしまうものだ。葬儀の段取り、挨拶、書類。手が勝手に動いて、涙の出る隙間がない。あとになって「なぜあのとき泣かなかったのか」と自分を責める。この方も五年間、どこかで自分を責めてきたのではないだろうか。あれだけ泣ける自分が、妻の前では泣けなかったと。
アキ:……あ。そうか。この人、涙もろいことより泣けなかったことのほうを、ずっと気にしてたのかもしれない。
シオン:おそらく、そうなのだろう。
五年という、解凍の時間
では、五年経った今、この方はどうしているのでしょうか。
夕方の工房。作業台に向かって小さな歯車を覗き込む。ラジオが古い歌謡曲を流す。その間奏でまた目頭が熱くなる。これは以前と同じ光景です。けれど、ひとつだけ変わったことがあります。
シオン:この方は最近、気づき始めているのではないだろうか。歌謡曲の間奏で流れるその涙がもう、旋律のためだけの涙ではないことに。妻を亡くしたあの夜に流せなかった涙が、五年かけて少しずつ、少しずつ、日々の小さな涙にまぎれてこぼれ出しているのではないだろうか。
アキ:……そういうことか。凍った泉が一気にじゃなくて、春の雪解けみたいにちょっとずつ溶けてる。
シオン:そうだ。あの夜に流せなかったぶんを、この方の心は五年もの歳月をかけて丁寧に、少量ずつ返しているのだと思う。孫の見送りで滲む涙。修理を終えた古い時計が、また時を刻み始めた瞬間に浮かぶ涙。そのひとしずくひとしずくの奥に妻がいる。
ケンゴ:……つまり、この方はもう妻のために泣いているわけだ。あの夜からずっと、形を変えて。それを本人がまだ、「妻のための涙」と名づけていないだけで。
アキ:名づけてあげたいね。それ、名づけてあげたい。
妻を見送った人へ、私たちから
アキ:あのね。あの夜泣けなかったこと、もう責めないでほしい。あなたの涙は涸れてなかった。ただあなたの心が、あなた自身を守るためにいちばん大事な涙を、五年かけて少しずつ流す道を選んだだけなんだよ。あなたの体はちゃんと、あなたを守ってくれてた。
ケンゴ:私からは、こう言いたい。あの夜に泣けなかったのは、悲しみが足りなかったからではない。悲しみが深すぎたからだ。それは順序が違うだけで、愛の量は少しも減っていない。むしろ――流せなかったほど深かった。それだけのことだ。
シオン:私から、ひとつだけ問いを置いていく。今度、工房の夕暮れで涙がこぼれたとき、その涙にそっと妻の名を呼んでみてほしい。声に出さなくてもいい。心の中で、ただ一度。そのときあなたはようやく、あの夜のご自分と静かに再会するのではないだろうか。凍った泉は、もう溶け始めている。あとはあなたがその水に、名前を与えてあげるだけだ。
自分に問いかけるロードマップ(エピローグ)
- あの夜、泣けなかった自分を、これまでどんな言葉で責めてきただろうか。その言葉をそっと下ろしてみたら、心はどう感じるだろうか。
- この五年、ふとした瞬間にこぼれた涙の中に、本当は妻がいたのではないかと思える瞬間はなかったろうか。
- 涙は「一度に流しきる」ものだと思い込んでいないだろうか。少しずつ、長い時間をかけて流す悲しみがあってもいいのではないか。
本日の羅針盤(エピローグ・最終)
いちばん泣くはずの人が、いちばん泣くべき夜に泣けなかった。この一点を、私たちは「泉が凍った」と受け取りました。壊れたのでも、愛が足りなかったのでもありません。悲しみがあまりに深く、心が自分を守るために涙をいったん凍らせた。それだけのことです。
そして五年。凍った泉は春の雪解けのように、日々の小さな涙にまぎれて少しずつ溶け出しています。歌謡曲の間奏で、孫の見送りで、直り終えた時計の秒針で――こぼれるひとしずくの奥に妻がいます。あなたはもう、五年間ずっと、妻のために泣き続けてきたのです。ただ、その涙にまだ名前をつけていなかっただけで。
あの夜、泣けなかったことを、どうかもう責めないでください。あなたの心はいちばん大切な涙を一夜で流しきってしまうのが惜しくて、五年という長い時間に分けて、大事に大事に流す道を選んだのです。それはあなたの涙もろさが持つ、いちばん深く、いちばん優しい働きでした。
次に工房の夕暮れで涙がこぼれたら、そっと妻の名を呼んでみてください。凍った泉のほとりであなたはきっと、あの夜の自分と静かに手を取り合えます。
なお、大切な方を亡くした後の深い悲しみが長い年月を経ても、なお日常を立ち行かなくさせる、眠れない夜が続くといった状態があるときは、悲嘆へのケアを専門とする窓口や医療機関に相談する道もあります。ひとりで抱え続ける必要はありません。あなたの涙のそばには、いつでも手を伸ばせる誰かがいます。




コメント