「効くらしい」を、私は聞き続けている
私は五十代半ばの機械設計士で、妻とは十年前に別れ、いまは駅から離れたアパートで一人暮らしをしている。
きっかけは取引先の役員が雑談で、「落語をよく聞く」と言っていたことだった。なんでも頭の切れる人には、落語を嗜(たしな)む人が多いらしい。話の間や構成の妙が、思考を鍛えるのだ、と。
それで私も、配信サービスで名人と呼ばれる人の高座を流すようになった。だが、正直に言えば面白いと感じたことは一度もない。早口で何を言っているのか半分も聞き取れず、どこで笑えばいいのかも分からない。ただイヤホンの向こうで、誰かが延々と一人で喋っているのを、私は黙って聞いている。
脳にはいいのだろう、とは思う。けれど、あの役員のように味わうには、私自身が落語家のように語りの訓練でもしなければ意味がないのではないか。そこまでするつもりもないのに、私はなぜ、面白くもないものを日曜の午後に流し続けているのだろう。半分融けた氷が、グラスの底でかたんと音を立てた。
よりみちナビゲーターの対話
ケンゴ:この相談を読んで私がまず引っかかったのは、「効くらしい」という伝聞の構造だ。頭の切れる人が落語を聞く。だから頭にいい。だから自分も。──これは相関を因果と取り違える典型だと思う。もともと話の構成や間合いに敏感な人が、たまたま落語も好んだという順序かもしれない。つまり、落語が原因なのではなく、それを楽しめる感性が結果として同居していただけ、という可能性だ。
アキ:ケンゴさんの言うこと、構造としては分かるよ。でもね、私が気になったのは別のところ。この方、日曜の午後にひとりで、聞き取れもしない語りをずっと流してるんだよね。それって落語が効くかどうかの話じゃなくて、「誰かの声がそこにある」っていう状態を、身体が求めてるんじゃないかな。
イヤホンの向こうで誰かが喋り続けてる。冷えたグラスの氷が音を立てる、あの静けさ。私、そこに一番の本音がある気がした。
ケンゴ:アキの言うことも分かる。ただ──寂しさの受け皿として落語を選んでいるのだとしたら、なおさら「効くから」という理由づけは要らないはずだ。私が言いたいのは目的と手段がねじれている、ということだ。脳を鍛えたいのが目的なのに、この方は「早口で半分も聞き取れない」と感じている。つまり相性が悪い。相性の悪い道具で目的を果たそうとすれば、疲弊するだけで成果は出ない。
アキ:そこは、そうだね。効かせたくて始めたのに、効いてる実感がないままやめられないっていうのが一番しんどいループだもんね。
シオン:この方は「落語家のように訓練しなければ意味がないのでは」と書いておられる。私はその一文にこそ、静かな誠実さを感じる。中途半端に触れることを、自分に許せていないのかもしれない。効くか効かないかその手前で、この方はずっと「本気で味わえない自分」を見張っているのではないだろうか。落語というのは本来、笑うために聞くものだ。効かせるために聞くものではなかったはずだが。
自分に問いかけるロードマップ
- 私はこれを「効くから」始めたのか、それとも「日曜の午後の空白を埋めるため」に始めたのか。本当の目的はどちらだろう。
- 「役員が聞いている」という事実は、私がそれを続ける理由になり得るのか。他人の成功に付随していただけの習慣を、私は根拠として借りていないか。
- そもそも落語は「面白いから聞く」ものではなかったか。私は笑いをいつの間に、「効能」に読み替えてしまったのだろう。
本日の羅針盤
ケンゴはこの営みを、「因果の取り違え」と「目的と手段のねじれ」として捉えました。効かせたいのに相性の悪い道具を握り続ける構造は、遅かれ早かれ自分を消耗させる、と。
一方でアキは、落語そのものより「誰かの声で日曜の静けさを埋めたい」という身体の声にこそ、核心を見ています。
そしてシオンは、笑うための芸を「効能」に読み替えてしまった、その転倒に静かに光を当てました。
答えを一つに絞る必要はありません。もし脳への効用が目的なら、自分に合う別の道具を探す自由がある。もし空白を埋めたいのなら、落語である必要すらないかもしれない。そしてもし、いつか本当に一席で腹の底から笑えたなら、そのときは「効くから」という理由はもう要らなくなっているはずです。「誰かが効くと言っていたから」は、あなたの日曜の午後を捧げる理由としては弱いのです。





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