第二章 「本気でやらない自分」を、私はいつから見張り始めたのか
あの役員の顔を、私はよく覚えている。会議のあと資料をまとめながら「いやあ、昨日の高座はよかった」と、誰にともなく漏らした横顔。その口元がほんの少し緩んでいて、私はそれを見て、少しだけ羨ましかったのだと思う。仕事の話ではないところで、彼はあんなふうに笑える。私の日曜には、そういう緩みがない。だから私は配信を開いた。効能を求めていたつもりだったが、本当はあの緩んだ横顔のほうを欲しかったのかもしれない。
よりみちナビゲーターの対話
ケンゴ:第一章で私は、「目的と手段がねじれている」と言った。だがこの方の書きぶりを読み返して、私は自分の言葉を少し補正したい。この方が握っているのは、落語という手段ではない。あの役員の「緩んだ横顔」だ。つまり真似ているのは芸ではなく、他人の充足そのものだ。これはもっと根の深い話だと思う。
アキ:あ、それは私も感じてた。この方、落語がどうこうより、「あの人みたいになれない自分」をずっと採点してるんだよね。効いてるか、味わえてるか、本気で向き合えてるか。全部、自分に点数つけてる感じ。日曜の午後まで、なんで自分を試験監督みたいに見張らなきゃいけないんだろうって思っちゃう。
ケンゴ:その「採点」という言葉は正確だと思う。ただ──採点そのものが悪いわけではない。私はむしろ、自分を測る物差しを持つことは大人の条件だと考えている。問題は物差しが「他人の横顔」になっていることだ。他人の充足を基準にすれば、どれだけ努力しても満点は来ない。なぜならそれは、自分の充足ではないからだ。測るなら、自分の物差しで測るべきだ。
アキ:ケンゴさんがそう言うの、ちょっと意外。いつも「構造を変えろ」って言う人が、「まず物差しを持ち替えろ」って言ってる。
ケンゴ:構造の話をしているつもりだ。何を基準に自分を評価するか──それも一つの内的な構造だろう。壊れた基準を握ったまま努力を足しても、消耗するだけだ。
シオン:「あの緩んだ横顔のほうを欲しかったのかもしれない」とご自身で書いておられる。この方はもう、答えの半分に触れておられると思う。羨ましかった。その一語を認められた人はたいてい、すでに歩き出している。落語を味わえるかどうかは実のところ、もうどちらでもよいのではないだろうか。
自分に問いかけるロードマップ
- 私が本当に欲しかったのは「落語がわかる自分」なのか、それとも「仕事以外のところで緩める時間」なのか。
- 私は日曜の午後まで自分を採点している。その物差しはいつ、誰から借りたものだろう。
- もし「効く/効かない」も「わかる/わからない」も、いったん脇に置いてみたら。私の日曜には、何が残るだろう。
本日の羅針盤
第一章で見えたのは「効能への読み替え」でした。第二章で浮かんだのは、その奥にあった「他人の充足を物差しにしてしまう癖」です。
ケンゴは、測るなら自分の物差しで、と言いました。
アキは、日曜の午後まで自分を採点し続けることのしんどさに寄り添いました。
シオンは羨ましさを認めた時点で、この方はもう半分歩き出していると言い添えました。
落語がわかるようになる必要は、たぶんありません。必要なのはあの役員の横顔ではなく、あなた自身が仕事の外側で少しだけ緩める、その時間のほうです。それが落語であってもなくても構わない。物差しを他人から取り返すこと──今日はそこまで見えれば、日曜の午後は十分に働いています。
もし「何をしても採点する声が止まらない」「日曜が来るのが重い」という感覚が続くようであれば、心療内科やカウンセリングなど専門機関への相談もご検討ください。自分を休ませる技術は一人で抱え込むより、手を借りたほうが早いこともあります。




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