「波長が合わない」と「性格が合わない」とは、何がどう違うのか
私は四十七歳になる。関西のとある中規模都市で、夜間営業のクリーニング店を一人で切り盛りしている。朝はスーパーのレジでパートに入り、午後三時に店を開けて、夜十時に閉める。そういう生活を、もう七年続けている。
娘は高校二年生で、夜は塾と部活で帰りが遅い。元の夫とは八年前に別れて、それ以来、娘と二人で暮らしてきた。狭いマンションの一階を店舗にしていて、二階が住まいだ。
商売柄、一日に五十人くらいのお客さんとカウンター越しに言葉を交わす。「お預かりします」「火曜日でよろしいですか」「お返しします」「ありがとうございました」。決まり文句の連続だ。それなのに相手によって、こちらの体の疲れ方がまったく違う。
同じ「ありがとう」を言って店を出ていくのに、ある人が出ていったあとはカウンターの内側に何かが軽く残る。別のある人が出ていったあとは、レジ脇の検針票の山が急に重たく見える。会話の長さも内容もほとんど同じなのに、なぜなんだろう。
世間ではこれを「波長が合う、合わない」と言うらしい。娘も友達の話をするときに、「あの子とは波長が合うねん」と平気で使う。でも私は最近、この言葉に少しだけ引っかかっている。
確かに、なんとなく噛み合わない人はいる。こちらが「火曜日でよろしいですか」と言ったときに、間髪入れずに「は?」と返してくる人。シャツの染みの位置を説明している途中で、もう財布を出している人。悪い人ではないのだろう。けれど、その人が店を出たあと、私はなぜか自分の声を一度確かめたくなる。今の私、変な言い方してへんかったかな、と。
これを「波長が合わない」と呼んでいいのか。「性格が合わない」とは、何がどう違うのか。そして、合わない相手と毎日カウンター越しに会わなければいけない私は、合わせるために何かしているのだろうか。していないのだろうか。
夜、シャッターを下ろしたあと、レジの前に立ったままふとそんなことを考えてしまうのだ。
夜のカウンターに、四人の声が差し込む
シオン:「波長」という言葉を、人はずいぶん気軽に使う。けれど、そう呼ぶときの私たちは本当はもっと細かいものを感じ取っているのではないだろうか。声の速さ、間の取り方、視線が落ちる先、財布を出すタイミングの早さ。そういう名前のつかない無数のものを一語にまとめてしまう便利な袋──それが「波長」なのかもしれない。
サキ:そうですね。一日に五十人とカウンター越しに話すって、本当はものすごく繊細な仕事ですよね。一人あたり一分か二分の接触の中で、相手の機嫌、急ぎ具合、何を求めているか、それを全部読み取って対応している。それを七年も続けているということは、この方の体はもう相当こまやかなセンサーになっているはずです。
アキ:わかる。私、コンビニでバイトしてた時期があるんだけど、お釣りを渡すときに「ありがとう」を言う人のトーンだけで、その日の自分のコンディション変わるんだよね。同じ「ありがとう」でも、こっちを見て言ってくれる人と、スマホ見ながら言う人とで全然違う。たぶんご本人は気づいてないけど、それを毎日五十回受けてるって、相当の気力使うよ。
ケンゴ:三人の話を聞いていて思うが、「波長」という言葉の便利さには、少し警戒したほうがいいだろう。「あの人とは波長が合わない」と言った瞬間、こちらが歩み寄る努力を放棄する口実になりかねない。性格や価値観の違いは、言葉にすれば検討できる。だが「波長」と言ってしまえば、それは生理的な領域に追いやられ、議論の外に出てしまう。
アキ:ケンゴさんの言うこと、わかるよ。でもさ──全部を言葉にして検討しなきゃいけないっていうのも、けっこうしんどくない? この方は一日、五十人とカウンター越しに会ってるんだよ。その全員と「歩み寄る努力」をしてたら、たぶん夜になる前に倒れる。「波長」って言葉は、逃げる口実じゃなくて自分を守るブレーキでもあると思う。
ケンゴ:それも一理ある。ただ、相談者は商売をされている。客を選べる立場ではないだろう。生理的な違和感を「波長」で片付けてしまえば、店という場そのものが成り立たなくなる。彼女にとって必要なのは、合わない相手とどう距離を取りながら関係を維持するかという、具体的な技術ではないかと思うが。
サキ:ケンゴさんのおっしゃることもわかります。ただ、私は少し違って感じていて──朝はスーパーのレジ、夕方からはご自身の店、夜十時まで。一日十時間以上、人と接し続けている方なんですよね。技術が足りないのではなくて、すでに技術はあるのにその上で残ってしまう微細な違和感を、本人がどう扱っていいかわからずに困っている、という話のように読めるんですよね。
気づきは、答えではなく問いの中にある
三人の言葉が交差したところで、シオンが静かに口を開いた。
シオン:三人それぞれの言葉は、どれも嘘ではないだろう。問題はいま、この方にとってどの言葉が体温に近いか、ということではないだろうか。
そして、こう続ける。
シオン:「波長」と「性格」は、たぶん別のものだ。性格は、その人の輪郭。波長は、その人と自分のあいだに流れる目に見えない何か。性格の合わない人とも、波長が合うことはある。意見はぶつかるのに、なぜか一緒にいると呼吸が楽になる相手。逆に性格は似ているはずなのに、話すたびに胸の奥が固くなる相手もいる。この方が感じている「店を出たあとに自分の声を確かめたくなる感じ」は性格の問題ではなく、波長の問題なのかもしれない。
シオン:そして、合わせるために何かするかという問いについて。私はこう思う。波長は合わせるものではなく、気づくものではないだろうか。合わない相手に無理に合わせれば、自分の波の形が崩れる。崩れた波で接客を続ければ、いずれカウンター越しの全員にその崩れが伝わっていく。だから合わない人とは合わないままで、ただ「合わない」と静かに知っていること。それだけで十分かもしれない。
本質的な気づき──結論を一つにしないために
「波長」という言葉は、便利すぎる袋です。その袋の中には、本当は名前のつかない無数の感覚──声の間(ま)、視線の落ち方、財布を出すタイミング──が詰まっています。
ケンゴの言うように、その袋を安易に使えば関係を切り捨てる口実になります。アキの言うように、その袋を否定すれば自分を守るブレーキを失います。サキの言うように、すでに技術を持っている人にとっては、その上で残る微細な違和感をどう扱うかが課題なのかもしれません。
そしてシオンの言うように、波長は合わせるものではなく、気づくものなのかもしれません。
カウンターの内側に立つあなたへ。七年間、一日に五十人と短い言葉を交わし続けてきたあなたの感覚は、たぶん正しいのです。「軽く残る」と感じる相手がいることも、「重たく見える」と感じる相手がいることも。それを「波長」と呼ぶかどうかは、本当はどちらでもよいのです。大切なのはその感覚を、自分の中で否定しないことではないでしょうか。
※もし、人との関わりで強い疲弊や、眠れない日々が続くようでしたら、地域の保健センターや心の健康相談窓口に一度頼ってみることも、長く店を続けるための知恵のひとつです。一人で抱え込まないことも、立派な経営の判断だと思います。




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