「向いていない」と気づいた夜に、革靴を脱ぐということ
フロントのカウンターに立っていると、自分の体のどこかがずっと細く震えているのがわかる。
朝、制服のシャツに袖を通すとき、まず薬を一錠。水で流し込んで、ようやくスイッチが入る感覚がある。これがないと、お客様の前で頭が真っ白になってしまう日がある。
勤めて七か月。手取りは十四万円台で、シフトは不規則だ。中抜けの長い休憩時間に部屋に戻っても、買い出しを頼まれれば出ていく。残業代はついていない。それでも、怒鳴られることはない。ミスをしても、軽く注意される程度だ。職場の方々は悪い人ではない。
ただ、自分とは違う。みんな旅行が好きで、友人が多くて、よく笑う。私は家でゲームをして、アニメを見て、夜に少し散歩をする、それで十分満ち足りるタイプの人間だ。会話を合わせていられる時間は、たぶん演技をしている。終わったあと、強い疲れと空っぽな感じが残る。
前にAmazonの倉庫で軽作業をしていた頃は、許されるなら一生でもいいと思った。給料は低かったし、不安定だった。それでも夜、家に帰ったときの心はまだ、自分のものだった。
このまま続けるべきか。辞めるべきか。そもそも自分は、正社員という働き方に向いていないのではないか。求人サイトを開いては閉じる夜が、増えている。
よりみちナビゲーターの対話
ケンゴ:話を読んでまず一つ、はっきりさせておきたいことがある。あなたは「自分は正社員に向いていないのではないか」と問うているが、それは違うと思う。向いていないのは「正社員という働き方」全般ではなく、「対人不安を抱えた人間に、突発対応と長時間拘束と低賃金と残業代未払いを同時に課してくる、いまのその職場」だ。この二つを混同してはいけない。混同すると判断を誤る。
サキ:ケンゴさんの言うこと、わかります。ただ、私は少し違って感じていて──この方が「Amazonの倉庫にいた頃、心がまだ自分のものだった」と書かれていますよね。私はこの一文が、いちばん大事だと思うんです。給料の額や雇用形態より先に、「夜、家に帰ったときに自分が自分のままでいられるか」という生活の手触りがある。そこを起点にしないと、また同じ消耗を繰り返してしまう気がして。
ケンゴ:それも一理ある。だが、生活の手触りだけで決めると、二十七歳の選択としては危うい。手取り十四万、残業代未払い、教育体制なし──これは「合う合わない」以前に、労働環境として相当に痩せている。あなたがいま薬を飲みながらようやく立っているのは、あなたが弱いからではなく、職場の構造がそうさせている部分が大きい。ここはまず構造の話として見たい。
サキ:構造の話、否定はしないんです。ただ、ケンゴさんの「五年後から逆算する」という発想は、いまこの方の体が立っていられるかどうか、その前提があってこそだと思っていて。明日の朝、また制服に袖を通せる状態でないと、五年後の話は始まらないんですよね。
ケンゴ:……それは、その通りだ。だから順番として、私はこう考える。
第一に、いまの職場の「残業代未払い」は法的には未払い賃金であって、辞める辞めないに関わらず、記録を取っておく価値がある。
第二に、転職活動は「いまの職場を辞める」前提ではなく、「市場における自分の選択肢を知る」ために始める。動きながら判断材料を増やすやり方だ。
第三に、Amazon倉庫での経験を「逃げ」と捉えないこと。突発的な対人対応が少なく、作業の手順が明確な仕事であなたはきちんと機能していた。これは立派な自己データだ。
サキ:自己データという言葉、いいですね。ご自分の「うまく回っていた時期」を、ちゃんと参照していい。私が一つだけ気になるのは──「正社員でなければならない」という前提が、ご本人の中でどこから来ているのかということなんです。世間の声なのか、ご家族なのか、ご自分の中の理想像なのか。ここを一度、棚卸ししてもいい気がします。
シオン:……お二人の言葉は、どちらも嘘ではないだろう。一つだけ、横から差し入れさせてほしい。「向いている」「向いていない」という言葉は便利だが、ときに人を急がせる。この方が倉庫で感じた安らぎは、もしかすると「単純作業が向いていた」のではなく、「自分の輪郭が、誰にも削られずに済んでいた」ということではないだろうか。問うべきは職種ではなく、自分の輪郭をどれだけ保てる環境かということかもしれない。
自分に問いかけるロードマップ
判断を急ぐ前に、紙の端にでもこう書き出してみてください。
- 自分はいま、薬の助けを借りて「業務を遂行している」のか。それとも「自分を削って遂行している」のか
- Amazon倉庫の頃に感じた「心が自分のものだった」感覚は、具体的にどんな場面で訪れていたか
- 「正社員でなければ」という思いは、誰の声から来ているのか
- いまの職場で、残業代未払いを含む労働条件の記録を、自分は手元に残しているか
- 転職活動を「辞める準備」ではなく、「選択肢を知る作業」として始めるなら、何から動けるか
本日の羅針盤
ケンゴは「構造から見よ、市場を知れ、自己データを参照せよ」と言いました。
サキは「夜、家に帰ったときに自分が自分でいられるか、を起点にしてほしい」と言いました。
シオンは「向き不向きの問いを、輪郭を保てるかという問いに置き換えてみては」と差し入れました。
三つの言葉は、無理に一つにまとめなくていいと編集部は考えています。いまのあなたに必要なのは即断ではなく、動きながら材料を集めることです。 求人を見る手を止めないこと。残業代未払いの記録を残しておくこと。倉庫で感じた安らぎの正体を、自分の言葉で言語化してみること。判断はそれらが揃ってからで遅くありません。
なお、心療内科に通院されているとのこと。薬を服用しながらの勤務という状況は、それ自体がすでに相当な踏ん張りです。働き方を考えるうえでも、主治医に「いまの職場環境が症状に与えている影響」を率直に共有されることをおすすめします。労働条件に関する具体的なご不安(残業代未払いなど)については、各都道府県の労働局・労働基準監督署の総合労働相談コーナーで無料相談が可能ですので、必要に応じてご検討ください。




コメント