壁の向こうの物音が、私の考えごとに返事をする夜に
築十五年のアパートの二階。私は五十代の男性で、定年まであと少しの事務職をしている。妻とは十年前に別れ、今は一人暮らしだ。
気づいたのは、去年の秋の終わりごろだった。夜、布団に入って、翌日の会議のことや疎遠になった娘のことを考えていると、隣の部屋でコトリ、と何かが動く音がする。私が「嫌だな」と思った瞬間に、上の階でギシ、と床が鳴る。偶然だと思おうとした。けれどそれが毎晩続くようになると、偶然という言葉では自分をなだめられなくなった。
やがて、逆のことも起きるようになった。壁の向こうの誰かの苛立ちが、こちらに流れ込んでくる。名前も顔も知らない人の戸惑いや怒りのようなものが、私の胸のあたりに直接触れてくる感じがするのだ。
会社でも同じだった。私が何かを思うと、同僚がちらりとこちらを見る気がする。頭の中まで見られているようで、席にいるだけで消耗する。昔、人の心が読めてしまう人たちを描いたテレビドラマがあったが、あれが自分の身に起きているのではないか。そう考えるようになった。
一番つらいのは、こちらの感情がすぐ相手に伝わってしまうことだ。家でも職場でも、隠れる場所がない。私にはもう、ひとかけらのプライバシーも残っていない。
よりみちナビゲーターの対話
シオン: 静かな部屋ほど、音はよく聞こえるものだ。あなたが夜、ひとりで考えごとをしているとき、その部屋には他に何もないのだろう。だからこそコトリという小さな音が、まるであなたの心に返事をしたかのように響く。私はあなたが体験していることを、「気のせいだ」と切り捨てるつもりはない。あなたにとってそれは、確かに起きていることなのだから。
サキ: 私も切り捨てたくはないと思ます。ただ、読んでいて胸が痛むのは、あなたが「隠れる場所がない」と書かれていることです。家でも職場でも、ずっと気を張り続けている。それはどんな理由であれ、心も体もくたくたになりますよね。ここ最近、ちゃんと眠れていますか。ごはんは食べられていますか。
シオン: サキの問いは、大切なところに触れている。人の感覚というのは疲れているとき、眠れていないとき、ひどく鋭くなることがある。研ぎ澄まされた刃が自分自身をも傷つけてしまうように。あなたの感受性はもしかすると、あなたを守るために働きすぎているのかもしれない。
ケンゴ: シオンの言うことも、サキさんの心配も分かる。ただ、私はもう少しはっきり言わせてほしい。あなたが感じている苦しさは本物だ。それは疑わない。だが「壁の音が自分の考えに反応している」という説明のほうは、一度脇に置いてみる価値があると私は思う。
シオン: ケンゴ、そこは急がなくてもいいのではないだろうか。
ケンゴ: ……シオンの懸念は分かる。ただ──これは相手を否定するためではないのだ。集合住宅の物音というのは、住人の生活リズムで動く。夜の十時、十一時に音が増えるのは、多くの人がその時間に帰宅し、風呂に入り、床につくからだ。あなたが考えごとをする時間と他人が動く時間がたまたま重なっている。この「構造」を知っておくだけで、少し楽になる人もいる。私はそれを伝えたいだけだ。
サキ: ケンゴさんの言う「構造」の話、私はありがたく聞きました。ただ、ご本人にとっては理屈だけで追いつかないほど、感覚のほうが先に来てしまっているんですよね。だから苦しい。理屈で「偶然だ」と分かっていても、体が反応してしまう。そこを責めないでいたいなと思うんです。
シオン: ところで、あなたは「どうしたら直るのでしょうか」と書かれていた。私はその言葉に、ずっと引っかかっている。あなたはこの感覚を、病のように「直したい」と思っている。それはつまり、この感覚のせいであなたが本当に大切にしたい何かが遠ざかっている、そういうことではないだろうか。娘さんとの疎遠になった時間のような。
自分に問いかけるロードマップ
紙とペンを用意する必要はありません。夜、静かな部屋で、心の中でそっと問い直してみてください。
- この感覚が強くなったのはいつごろからだろう。その前後で、生活や体調に何か変化はなかっただろうか。
- 眠れているだろうか。食べられているだろうか。ひとりで抱え込んでいる時間が、長くなりすぎていないだろうか。
- 「相手に伝わってしまう」と感じるとき、本当は何を分かってほしいと思っているのだろう。
- この苦しさを一度でも誰か信頼できる人に、あるいは専門家に、声に出して話したことがあるだろうか。
本日の羅針盤
この相談にひとつの正解を差し出すことはしません。それぞれの視座を、そのまま残しておきます。
シオンは、あなたの感受性を否定しません。ただ、その鋭さが今、あなた自身を削っているのではないかと問いかけます。感覚そのものを消そうとするより、まずその感覚に疲れきった心と体を休ませること。それが先ではないだろうか、と。
サキはあなたの生活を心配しています。眠れているか、食べられているか。プライバシーがない、隠れる場所がないと感じるほど気を張り続けている状態は、それ自体がもう限界のサインです。まず、あなたが安心して息をつける時間を、一日のどこかに作ってほしいと願っています。
ケンゴは、はっきりと伝えます。この苦しさは本物であり、決してあなたの気のせいや弱さではない。だからこそひとりで解決しようとせず、専門家の力を借りてほしい。それは負けでも恥でもなく、最も合理的で最も自分を大切にする選択なのだ、と。
そして、最後にひとつ。あなたが感じている苦しさはとても現実的で、切実なものです。この種の感覚――自分の考えや感情が他者に伝わってしまう、周囲の物音が自分に反応するという感覚が続き、日常生活や仕事に支障が出ているのであれば、それを「霊感」や「性格」の問題として抱え込むより、心の専門家に相談することで確実に楽になれる可能性のある領域です。
心療内科や精神科と聞くと、身構えてしまうかもしれません。けれどそれは眠れない夜や張りつめた神経を、専門家と一緒にほどいていくための場所です。医師はあなたの感覚を頭ごなしに否定したりしません。まずは「最近、眠れなくて疲れている」という入り口からで構わないのです。お住まいの地域の保健所や、自治体の「こころの健康相談」窓口、あるいは「精神保健福祉センター」でも、電話で相談を受け付けています。
壁の向こうの物音は、今夜も伝わってくるかもしれません。けれどその音とあなたのあいだに少しずつ距離を取り戻していくことは、きっとできます。あなたはひとりでこの夜を越えなくていいのです。
専門機関への相談のご案内
- こころの健康相談統一ダイヤル:0570-064-556(お住まいの都道府県・政令指定都市の公的な相談窓口につながります)
- お住まいの地域の 精神保健福祉センター/保健所(電話・来所での相談が可能です)
- かかりつけの医療機関、または心療内科・精神科
※眠れない、消耗が激しいといった状態が続く場合は、早めに専門家へ相談されることをおすすめします。





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